五木 身体的なことをずっと極めていくと、単なる健康法ではなくて、生き方とつながってくるんだ。だから僕は「養生」という言葉を使う。「健康」は体を実用的に扱うというニュアンスだけれど、そうじゃなくて、1個の命が宿る体というものは生涯の友、連れ合いですから、 なんとか折り合ってうまくやっていこうというふうにずっと思ってきました。

 人間の心も体も、 何十年と生きていれば、どんどん腐食していき、錆びついていき、故障も多くなっていくわけですけれども、体の声に耳を傾けながら、そういった不調も騙しすかし、なだめて、仲良くやってくという。これは人生後半の道楽としてはものすごく面白いことですよね。

思い出のヨリシロは
残しておきたい

他人からみて、どうでもいいような小物であっても貴重なヨリシロとなる品がある。ガラクタのようで、そうではない。(平凡社『新・地図のない旅II』より)

――五木先生は「断捨離はしない」と宣言されていますが、先生が大事にしている、思い出を引き出してくれる依代(よりしろ)は何でしょうか?

五木 極論を言えば、身辺にあるものすべてがそうなんだけれど、たとえば靴。この靴はどこで買って、履いてどこへ行ったとか、一足一足の靴に歴史があるじゃありませんか。僕は靴のフェチというか、山ほど靴がたまっちゃってどうしようもないんですけれど…。靴になぜそんなに執着するのかということを改めて考えてみると、日本が敗戦して、徒歩で38度線を越えて南へ脱北した経験が大きく影響しているかもしれない。

 深夜、見つからないようにグループに分かれて、ときに走ったりしながら山や川を進んでいくわけだけれど、最終的にたどり着いた人は半分ぐらいしかいなかった。それで、38度線を越えた人たちをよくよく観察してみると、みんな足元がしっかりしてるんだよね。

――靴がしっかりしていた、ということでしょうか。

五木 そう。靴はフットギアなんですよね。敗戦後、平壌に乗り込んできた第一線の戦闘部隊は足首の上まで長さのある、しっかりしたセミブーツを履いていた。その点、日本軍が兵隊に支給していた軍靴は、頑丈なんだけれど、サイズはほとんど無視したもので、上官から「靴に足を合わせろ」って言われていたんだよね。

「ちゃんとした靴を履いていなかった人は生き延びなかった」という潜在的なトラウマがあるもんだから、靴に対しては、ただの履き物というよりは、自分の命を支えて、行動を支えてくれる大事なものという意識がある。なので、いい靴を見るともう、買わずにはいられないんです(笑)。