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限定仕様も登場。主要マーケットだった日本市場

従来では考えられなかった“改善”が行われ、信頼性も格段に向上した。従来では考えられなかった“改善”が行われ、信頼性も格段に向上した。

 マセラティの日本におけるインポーターは1997年のフェラーリ傘下入りに伴って、フェラーリのインポーターであったコーンズとガレーヂ伊太利屋との合弁会社コーンズイタリアが誕生し、コーンズサイドの主導で経営が進んでいくこととなった。なお、この合弁会社は1999年に解消され、コーンズが100%ハンドリングを行うこととなった。

 クアトロポルテIVはそのすべての期間を通して販売された一台であるが、コーンズ販売のモデル末期には日本マーケットのみの特別仕様モデルが設定された。クアトロポルテ コーンズ セリエ スペチアーレ(1999)とクアトロポルテ コーンズ セリエ スペチアーレII(2001)の2モデルである。両モデルには、サイドのリアドア後部にトライデントエンブレムが、センターコンソールに特別エディションのプレートがそれぞれ装着された。さらにインパクトのあったのはラサール製オーバルウォッチの復活だった。エボルツィオーネ以降、ダッシュボードのセンターから消えたオーバルウォッチだが、マセラティの重要なアイコンというイメージが強かったため、少なからぬ数のオーナーが補修パーツとして取り寄せて後付けしていたほど。そのため、この限定モデルの評判はとてもよかった。ちなみに2001年モデルはクアトロポルテIVの最終製造ロットであった。 

 当時のマセラティはまさに少量生産メーカーそのもので、1994年当時には世界販売台数が年間1000台程度であったから、日本の販売シェアは大きかった。インポーターであったガレーヂ伊太利屋はこのクアトロポルテを戦略商品として、それまでのモデルよりも若干手ごろな735万円というプライスタグをつけ、大きくプロモーションを行った。もっとも、最終のエボルツィオーネ オットチリンドレは1000万円を超えており、決して廉価なモデルではなかったが。

 信頼性に関しては当時CEOであったイゥージニオ・アルツァーティ自ら日本を訪問しテストドライブに同行するなど、それまででは考えられなかった“改善”が行われた。余談をひとつ。当時筆者が彼の社長室に招かれた時、なんと“KAIZEN”というスローガンが壁に掲げられているのを発見した。それをネタとしていかに日本の自動車産業が素晴らしいかを、彼は訥々と語ってくれた。これまでのマセラティでは考えられなかったことだが、2人で大いに盛り上がったのだった。