つまり、今日本全国の観光地で問題になっている「観光公害」というのは、世界に対して「お・も・て・な・し」などと言って、日本のホスピタリティの高さを過度にアピールしてしまったことも原因なのだ。

 そう聞くと、「アピールも何も“おもてなし”は日本の文化なのだから、しょうがないだろ」と不愉快になられる方も多いだろうが、実はその認識は間違っている。

日本にはもともと
「おもてなし」の伝統などなかった

 日本は伝統的に「おもてなしの精神」を誇りにしているような国ではない。少なくとも、観光業や接客業で「おもてなし」が唱えられたのはせいぜいこの30年程度の話だ。バブル崩壊以降、いわゆる「失われた30年」に突入して、国内観光業が大きく衰退したとき、起死回生のマーケティングとして打ち出したのが「おもてなし」である。

 事実として、これまで日本の歴史の中で「おもてなし精神」などというものが語られたことはない。よく「おもてなしは古くは源氏物語にも掲載されている」なんてことが言われるが、それは単に「自宅に客が来たときにもてなす」ということを意味している。だから、近代になると「おもてなし料理」という言葉が生まれた。

 それが「外国人を迎える」というニュアンスで使われるようになったのは戦後の「外交の場」である。と言っても、別に日本人の精神性を示すようなものではなく、単なる外交辞令だ。わかりやすいのは、旧ソ連のゴルバチョフ書記長が来日したときのこんなスピーチだ。

「私の妻と私個人から天皇、皇后両陛下、日本政府、日本国民の温かいおもてなしと歓迎に心からお礼を申し上げます。(中略)やはり温かいおもてなしで有名な自国民を代表して、陛下のご都合のよい時機に私たちの国をご訪問頂くよう天皇、皇后両陛下をご招待申し上げます」(読売新聞1991年4月17日)

 ゴルバチョフ氏が「ソ連国民のおもてなし」を誇らしげに語っているように、ゲストを気遣ってもてなす文化は世界中のどこにでもある。海外でバックパッカーなどをやった人などはわかるだろうが、欧米社会でも外国人の旅行者を温かくもてなすような文化はある。

 筆者も若いときに中東を貧乏旅行したが、色々な国で自宅に招待されて泊めてもらった経験がある。つまり、「おもてなし」というのは日本だけの専売特許ではないし、ましてや日本の観光業や接客業の強みとしてアピールされるようなものではなかったのである。