シェイクスピアの他の作品にも道化はよく登場し、重要な役割を果たしているが、リア王の道化は、おべっかを使う姉娘たちに王国を分割して割譲し、最も自分を愛してくれる末娘を追放した王の愚かさを厳しく非難する。彼の皮肉混じりの発言は、リア王の判断の誤りや自己欺瞞を露わにする。
道化は正面切って王を批判することもはばからないが、リア王が没落していく過程で、他の従者や家臣が離れて行っても、最後まで王に仕える。彼は真の忠誠心を持っている数少ない人物なのである。
道化でないものが、王に対して批判を述べたら即刻追放、下手をしたら首をはねられるだろう。
しかし、道化には発言の自由がある。あえてそのような役割を王が道化に求めているからだ。
なぜなら、組織にとって、王にとって、その存在とその発言が極めて有用だと認識されているからである。
道化はあくまで物語上の存在で、そんな人物は実在しないと思う向きもあるだろうが、道化は古代から存在し、特に中世ヨーロッパからルネサンス期にかけて宮廷で重要な位置を占めていた。道化が愚かさや狂気など王の負の部分を引き受けることで、王は完璧な存在でいられたという側面もある。
かつては日本企業でも
道化役が機能していた
実は、かつては日本の会社にも道化と同じような役割を担う人々が存在した。そうした人々の誠心誠意の箴言がトップの間違った意思決定を阻み、会社を救った。
優れたトップが自分の最も信用する腹心を道化役に任命し、問題点を言上げさせたのである。
しかしながら、現在はそうした人物は絶滅危惧種となった。
道化は、あえて異論を差し挟むことでリスクマネジメントの観点から会社の維持発展に大きな役割を果たす。昨今、あらゆる会社で起こっている不正や失敗は、道化の不在が原因といったら言い過ぎだろうか。
では、会社からこうした道化の役割を果たす者がいなくなってしまったのは、なぜだろうか。
そもそも、会社において道化役を演じるには、本質を見抜く目や高い知性と特別なコミュニケーション能力、そして自己の利害よりも全体の利益を優先するある種の自己犠牲が必要となる。
そして、その重要性を誰よりも理解してくれるトップがいなければ存在できないし、特別に養成し、他者とは異なる扱いをしなければ、絶対に生まれてこない。