人間の身体の中で、がん細胞は免疫細胞に見つかって殺されるんでしょ。役に立たないから。もし、がん細胞が身体の中で生き残っても、今度は、そのがん細胞に居座られた人間全体が死んでしまうから、結局、そのがん細胞も死ぬ。やっぱり、役に立たない奴は、死んだほうがいいというのが、自然の法則なんだ。役に立たない僕は死んだほうがいい。そうでしょう」

人間は生きているだけで
必ず誰かの役に立っている

 先生はのんびりとした声でこう言った。

「がんだからって、それで必ず死ぬとは限らないよ。がん細胞と一緒に、きちんと寿命まで生きる人がいる。今どきだと、そういう人は全然珍しくないよ。『天寿がん』というのがあるんだ」

「天寿がん?」

「天寿をまっとうしたがん患者やがん細胞のことを、僕たちはこう呼んでいる。臨床的に、がんになる人は2人に1人だと言われているけれど、潜在的ながんはもっと多い。病理解剖して初めて見つかるがんもある」

「がんに、潜在的なものなんてあるんですか?」

「うん。患者さんが生きているときには見つからずに、死んでから初めて見つかる。それが潜在がん。つまり、寿命まで生きたがん細胞があるということだ。その人を殺すことなく、免疫細胞などに自分が殺されることもなく、ひっそりと、身体の奥で生きていたがん細胞だよ。そんながんを見つけると、感動する。

『ああ、おまえ、こんなところで、ずっと今まで生きていたのか』

 思わず、そう話しかけてしまうんだ」

 若者はじっと聞いていたが、少ししてから、こう言った。

「僕、生きていていいのかな。役に立たなくても」

 先生はゆっくりとうなずいた。

「人間は、ただ生きているだけで、必ず誰かの役に立っているよ」

「本当に?」

「うん」

 若者は、先生にひと言だけ「ありがとうございました」と残して、去っていった。

書影『もしも突然、がんを告知されたとしたら。』(東洋経済新報社)『もしも突然、がんを告知されたとしたら。』(東洋経済新報社)
樋野興夫 著

 翌年の春、若者は都内の大学の工学部に合格した。がんは、主治医の勧める通りの治療を受け、今のところ検査で何も心配な兆候はないという。

 樋野先生に報告に来た彼は、こう言った。

「情報工学を勉強します。小さい頃からずっと好きだったゲームを開発する仕事がしたいなって、あの後、思ったんですよ。このまま死ぬのも、なんだか、もったいないなって」

「そう」

 この日、先生の顔は、いつもより一段と晴れ晴れとしていた。