「中央線沿線にいそうな感じ…」坂本龍一が「教授」になる前の「意外なあだ名」とは?写真はイメージです Photo:PIXTA

YMO結成以前、あのクールでスタイリッシュな「教授」になる前は“長髪のむさ苦しい青年”だったという坂本。大学時代からスタジオ・ミュージシャンとして活躍していた彼は、山下達郎や細野晴臣や矢野顕子と出会い、彼らが独学で高度な作曲技法を身につけていることにショックを受ける。本稿は、佐々木敦『「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。

スタジオ・ミュージシャンとして
多忙を極めていた大学時代

 1977年3月、坂本龍一は東京藝大大学院修士課程を修了した。イエロー・マジック・オーケストラのファースト・アルバムがリリースされるのは1978年11月25日なので、このあと2年足らずで彼の人生は激変することになる。だが、そこに至るまでにも、濃密な日々がめまぐるしく展開していた。

 YMOの『イエロー・マジック・オーケストラ』の発売1カ月前に当たる1978年10月25日、坂本龍一は『千のナイフ』をリリースした。記念すべきファースト・ソロ・アルバムだが、必ずしも「満を持して」というわけではなかった。このアルバムは何度か再発売されているが、2016年に最新リマスターSACDとしてリイシューされた際、坂本龍一はそのブックレットに談話を寄せている。

『千のナイフ』という最初のソロアルバムを作ろうと思った1978年頃は、それまでの2年間をスタジオ・ミュージシャンとしての仕事に忙殺され続けて、精神的に非常に消耗していた時期です。

 毎日深夜まであちこちのスタジオをかけもちし、それから朝までお酒を飲む。

 そんな毎日を続けているうちに、このあたりで自分自身の音楽をちゃんと作ろうという思いが強くなっていった。
(「『千のナイフ』という乱暴」)

 実際、この頃の坂本龍一は多忙を極めていた。少し時間を巻き戻すと、彼が「スタジオ・ミュージシャン」となるきっかけを作った友部正人との新宿ゴールデン街での出会いが1974年の11月、22歳、大学院修士1年の時だった。レコーディングに参加した友部のアルバム『誰もぼくの絵を描けないだろう』のリリースが翌75年3月。坂本龍一は、ピアニストとして全面的に参加している(初のスタジオでの仕事だった)が、そのうちの一曲「ひとり部屋に居て」は『Year Book 1971―1979』にも収録されている。坂本龍一は友部のツアーに随行して全国を回った。