前年の春に大学院に進学したが、スタジオとライブの両方でミュージシャン仕事は増えるばかりだった。高田渡や山本コウタローらによる武蔵野タンポポ団、六文銭の及川恒平などフォーク系の人々、長い付き合いとなる大貫妙子と山下達郎がいたシュガーベイブとは同世代ということもあって、すぐに親しくなった。山下の紹介で大瀧詠一とも知り合い、大瀧・山下・伊藤銀次の三名による『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』のレコーディングに参加、全10曲中9曲でピアノ他を演奏している。

坂本龍一に天啓を与えた
天才肌のミュージシャンたち

『NIAGARA TRIANGLE Vol. 1』のレコーディング時に坂本龍一は、プレイヤーとして参加していた細野晴臣と初めて出会った。

 坂本龍一は、山下達郎や細野晴臣の非凡で洗練された音楽センスが、アカデミックな音楽教育と無関係だということに驚きを禁じ得なかった。2人の音楽を聴いた時、彼は自分と同じようにドビュッシーやラヴェルなどのフランスの作曲家、あるいはストラヴィンスキーなどから学んでいるものとばかり思ったが、まったくそうではなかった。山下達郎は「耳と記憶」で、つまり独学で、そうした音楽センスを身につけていた。

 山下くんの場合はアメリカン・ポップスから、音楽理論的なものの大半を吸収していたんだと思います。そして、そうやって身についたものが、理論的にも非常に正確なんですよ。彼がもし違う道を選んで、仮に現代音楽をやったりしていたら、かなり面白い作曲家になっていたんじゃないかと思います。(『音楽は自由にする』)

 坂本龍一が、細野晴臣の音楽から聴き取った偉大な作曲家たちからの影響を、細野は実際には受けておらず、聴いたことさえほとんどなかった。このことは、彼にとって驚愕の事実以外の何ものでもなかった。クラシックや現代音楽を知らずとも、ポップスやロックを大量に聴いてきただけで、高度な作曲技法を体得してしまった山下や細野に、坂本龍一は畏敬の念を抱いた。

 1976年には、シュガー・ベイブ解散後にソロとなった大貫妙子のファースト・アルバム『Grey Skies』に演奏と編曲で参加、同年5月には細野晴臣が横浜中華街の同發新館で行ったライブに出演し、矢野顕子と初共演している。