社会的階級の差が
読書意思に影響を及ぼす

 冒頭に紹介した映画『花束みたいな恋をした』の麦と絹の対比には、「労働環境が異なる」特徴以外に、もう一点気になる差異がある。

 それは麦と絹の階級格差だ。麦は地方の花火職人の息子であり、仕送りが止められる場面も描かれる。しかし絹は都内出身で、親は広告代理店に勤め、オリンピック事業にも関わっている。この出身の格差は、麦と絹の労働の対比にも影響をもたらしている。つまり、この映画は「読書の意思の有無が、社会的階級によって異なる」ことを描いた物語にも読めてくるのだ。

 実はこれと同じ話が、Amazon「読書法」カテゴリランキングの1位を飾る『独学大全』にも書かれている。

勉強本を買うほどに、学ぶことに関心を持つことができた者は、それだけ恵まれているということだ。現代では、格差はまず動機付けの段階で現れる(原文注3)。そのことを薄々感じるからこそ、学ぶ動機付けを持てなかった者は「勉強・学問なんて役に立たない」と吐き捨てるだけで済まさず、僻み根性を拗らせて、幸運にも動機付けを持てた〈めぐまれた連中〉に嫌がらせまでするようになる。これに対して、そうした連中を見下したい〈意識の高い連中〉は、自分が学ぶ動機付けを持った人間だと思いたい一心で、あれこれの勉強本を買い漁る。
(原文注3:苅谷剛彦『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会へ』有信堂高文社、2001年)

 つまり読書しようと思う意思の有無に、社会の階級格差が影響を及ぼしている、ということである。

 もちろん、『花束みたいな恋をした』の麦が「スマホのゲームならできるけど、本や漫画は読めない」と述べたときの「本や漫画」は、勉強というよりも文化的な娯楽、という意味だ。しかし『独学大全』が述べる「勉強・学問」と、『花束みたいな恋をした』の指す「ゴールデンカムイ」や「宝石の国」が離れたものであるとは私には感じられない。というか、ほぼ同じもの─自分の余暇の時間を使って文化を享受しようとする姿勢─だろう。

『花束みたいな恋をした』の麦と絹の、文化的趣味に触れる姿勢の背後にある階級格差は、『独学大全』の指摘する、勉強・学問に触れる姿勢の背後にある階級格差と同様のものではないだろうか。そしてそれがどちらも2020~21年に指摘された問題であることは、決して偶然ではないだろう。

「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る」……と詠んだのは明治時代の石川啄木だったけれど、現代でもやっぱり、はたらけどはたらけど、暮らしは楽にならない。それどころか、私たちは本を読む余裕さえなくなっている。暮らしは社会の格差を反映するし、その暮らしは本を読む時間すら、手に入れさせてくれない。