害虫根絶に人生をかけた
伊藤嘉昭の生き様

 ミカンコミバエの根絶の歴史から語りはじめよう。いったん、50余年も前に時を戻す。ミバエ類の根絶プロジェクトは、戦後の小笠原、奄美、沖縄の日本への返還と深く関わっている。

 1970年代から現在まで、特殊害虫の根絶を支えた関係者に貫かれている1つの「心構え」がある。先人たちから内々に引き継がれた申し送り事項のようなものだ。申し送りなので、公文書はもちろんのこと、役所や議事録などの公式の文章には現れない。

 それは、「たとえ根絶に失敗してもかまわない。なぜ失敗したかがわかるよう、事業の過程で得られたデータはすべて論文として公表しよう。できる限り英語で書いて世界に向けて公表する。それによって将来、成功に向けての筋道が必ずできる」というものだ。

「失敗はいずれ成功を導く」、この心構えを浸透させたのは、ミバエ根絶の密命を受けて、1972年に東京の農業技術研究所(現在の農研機構)から沖縄県にやって来た科学者・伊藤嘉昭(1930?2015)である。生態学者である伊藤は、根絶事業の命運を一身に背負った、まさに「運命の人」と言える。僕にとっては恩師でもあるが、敬称は略させていただく。

1992年10月にウイーンで開催されたミバエシンポジウム後、懇親会での伊藤嘉昭同書より転載

 伊藤はミバエの根絶を語る上で欠かせない人物だ。1950年、20歳で東京農林専門学校を卒業し、すぐ農林省(現在の農林水産省。伊藤はいつもこう呼んでいたのでここでは踏襲する)の農業技術研究所の昆虫科に入り、植物の汁を吸うアブラムシが害虫になるまでどのように増殖するかについて研究していた。

獄中の友は「暇」と「探究心」
新しい知識への渇望が彼を支えた

 52年5月1日、伊藤は農林省の職員100人近くとともに、皇居前広場へと行進するメーデーの集会に参加しようとした。ところが、途中、日比谷公園で警官に追われて逃げて来たデモ隊に巻き込まれ、運動神経の鈍い伊藤は咄嗟に逃げることができなかった。

 本人が後に語るには、デモ隊を追いかけて来た警官に小さな赤旗を持っていたという理由で殴られ、頭から流血した。一緒にデモに参加した友人らと診療所で応急処置を受けたが、3針を縫うけがを負い、手当ての後、仲間らとタクシーで帰ろうとしたところ、警察に呼び止められ、逮捕されてそのまま警察署に連行され勾留されたという。