なぜデモに参加しただけで逮捕されたのか。実はデモ隊は暴徒化し、皇居前広場に止まっていた外国人の自動車をひっくり返して炎上させた。警官とデモ隊の間で発砲もあった。デモに参加した側に死者も出る流血の惨事となった。世に言う「血のメーデー事件」である。伊藤は後に知ったが、当時「けが人はすべて連行せよ」という指令が警察から出ていたらしい。後の記録によると、衆人が集合して暴行などを行い公共の平穏を侵害した騒乱罪に問われ、1200名以上が逮捕され、うち261名が起訴されている。

 一緒に逮捕された仲間のうち、負傷して逃げ遅れた伊藤だけが261名の1人として拘置され続けた。伊藤の回想(『楽しき挑戦――型破り生態学50年』海游舎)によれば、黙秘せず警官に殴られたことを素直にしゃべったところ、逆に「日比谷公園わきの道路で警官に暴行した」とされて起訴され、その後9カ月近く、葛飾区小菅にある東京拘置所に勾留された。

 保釈後も17年続いた裁判の間、農林省を休職の身となりながら、支援者の支持を受け研究所に通い続け復職した。そういえば僕の記憶の中の伊藤も素直な性格の方だった。

 大変な事件に巻き込まれたわけだが、拘置所での伊藤の行動力には驚かされる。拘置所は飯も不味く、電灯も暗く、本を読むのに苦労したと本人は回想するが、「暇だったから」という理由で、友人の差し入れた外国の書物や文献を読み漁ったという。

 当時、日本の科学者のなかにはウクライナ出身でソビエト連邦の農学者ルイセンコの影響を受けたものも多かった。伊藤も彼を支持していたが、獄中でルイセンコの原著論文を自分で読むためロシア語を独学で勉強し、これを読破する。

世界中から「伊藤を復職させよ」の要望が殺到
農林省の「休職」撤回につながる

 それと同時に、当時のアメリカやイギリスの進化生物学の書物も読み漁った。そしてメンデル遺伝学を否定し、遺伝ではなく環境因子が形質の変化(つまり進化)を引き起こすという説を展開したルイセンコの学説は間違いだと認識するにいたり、ダーウィンの進化論をその基礎に持つイギリスやアメリカの学問を支持する気持ちに傾いたという。