拘置所で蓄えた知識をもとに、後に伊藤は日本の進化・生態の研究者たちに大きな影響を与える教科書や一般書を執筆する。

 また獄中から、アブラムシがどのように増えるかについて、その仕組みを書いた自著の論文の別刷を、国内外の科学者に郵送した。海外に送る際には自分のおかれた境遇を書いた手紙も添え、生物の集団を基礎とする生態学の重要性について問うた。勾留の身でありながら、欧米の錚々たる進化生態学者らと手紙による交流を深めた。前出の『楽しき挑戦』には「こうして拘置所の中からなんとかつきあってくれる学者仲間を作ってきたのだった」と書いている。

 起訴が決まると農林省から「休職」を言い渡された伊藤は、保釈後、メーデー事件被告団の運営委員になり、判決まで17年かかった裁判で無実を訴え戦った。そして1970年の一審にて証拠不十分で無罪になった。復職に向け支援してくれたのは農林省や都道府県の現場の研究者、手紙を通じて仲間となった海外の科学者たちだった。

書影『特殊害虫から日本を救え』(集英社新書)『特殊害虫から日本を救え』(集英社新書)
宮竹貴久 著

「伊藤を復職させよ」という要望書が次々と集まり、一審判決の1年前、69年3月に復職が決まった。なおこの裁判、結局二審ではメーデー騒乱罪自体が不成立となり、検察庁は最高裁への上告を断念した。判決前の復職も異例なら、検察の上告断念も極めて異例だと本人は回想している。

 伊藤は獄中でも、保釈後も、研究を続けた。休職中の身でありながら、というより休職中の生活費の足しにするため、欧米の生態学の発展を紹介する書籍も何冊か執筆した。僕たちより少し上の世代は教科書として読んだ人も多いだろう。こうした奇特な才能を買われ、大学から教職への打診もされたが、思わぬ妨害を受けて話が流れたりもしている。その代わりに、復職した農林省から密命を受けて沖縄に派遣されることとなる。それがミカンコミバエとウリミバエの根絶に結びつくのだから、人の運命は不思議である。