幻覚だろうか?話がおかしい?せん妄ではないかって?そうかもしれない。しかし、それがどうだというのだろう。だいたい、何が聞こえたのかだれもラフマニノフに問わなかったのに、なぜそれがせん妄だとわかるのだろうか?ここは静かだ、音楽など鳴っていない、と主張することで、彼らは貴重なチャンスを逃していたのではないか。そんなものは聞こえない、と言い張る代わりに、あなたにはどんな音楽が聞こえているのですか、となぜだれも尋ねなかったのだろう?

 ラフマニノフが何を聞き、その音がどこから来たにせよ、それは、前世紀屈指の偉大なロシア人作曲家が最後に耳にした音楽だったのだ。つまり彼の周囲にいた人々は、「偉大な作曲家の人生最後の音楽」という現実に気づくチャンスを逃したことになる。それが現実以下のものだったと、せいぜい彼だけの現実だったと、だれに言えるのだろうか?

わたしたちが見えている
景色だけが正しい現実なのか?

 また、それが現実ではないとしたら、死にゆく人が明晰性のエピソードの最中に、ほかの人々に知覚しえないことを知覚しているケースについてはどう解釈すべきなのだろうか?

 わたし自身は、こうした話をかなり信頼できる筋からいくつか聞いたあと、よくわからなくなった。正直なところ、「単なる幻覚だ」と浅はかに思っていたときも(調査の初期には)あった。だがいまでは、わたしたちの示せる最も誠実な答えはこうだと考えている。つまり、「これらのビジョンが何を物語っているのか、それがどういう意味をもつのか、その人たちが実際に何を見たり聞いたりしているのか、わたしたちにはわからない」のである。

 とはいえ先に述べたように、こうした現象が末期患者のあいだで珍しいものでないことは、ほかの研究グループの成果からわかっている。それに、どう解釈すべきかわからなくても、そうしたことに遭遇したときにどう反応し、どう行動すればいいかは少なくともわかっている。

 コミュニケーションを絶やさず、話に耳を傾け、支えになり、彼らが語る物語を受けとめようとすること。彼らに寄り添うこと。そしてなにより、わたしたちに見えている現実だけが正しい現実だと思い込まないことだ。

 死にゆくときには、いろいろなことがあるかもしれない。だが、それを知っているわけでもないのに、知っているかのような主張をしている時間はないのだ。