私的空間化する公的空間
個人主義から「孤人主義」へ

 このように、1990年代以降、「マナー論争の時代」ともいえるほど活発な議論が交わされた。とくに問題になったのは車内での飲食、化粧、キスなどの男女の触れ合い、地べたに座るといったことであった。

「電車内のキスもういい加減にせんかい」(『週刊文春』1993年10月7日号)、あるいは「急増電車内『濃厚キッス』にブーイング大噴出」と題された記事では「若者の『厚顔無恥』が目に余る!」としている(『週刊大衆』1999年8月9日号)などがある。

「電車は自分の部屋も同じ?キス、食事、なんでもアリ!」(『週刊女性』1996年8月27日号)という記事で、「最近の電車内は、個人の部屋を覗いているよう。自分の部屋でしていたことを、今は電車の中でするようになったってこと?」といわれているように、「私的空間」を「公的空間」に持ち込んでいることを問題視していることになる。

 たとえば、昭和一桁世代の保守派のジャーナリストは、電車内の化粧、飲食、抱擁、そして携帯電話の利用が増えることで、「私と公」が溶解して、「孤人主義」が進んだ「無作法の時代」になったという。

「ケータイを得て、個人の孤人化は完了した。『私』と『公』はバリアーフリーで溶け合ってしまった」(徳岡孝夫「これが日本人か!無作法の時代」〈『文藝春秋』1999年11月号〉)。そして、老人、先生、同じ電車に乗り合わせた他者にも「敬意」を払わなくなったと嘆いている。そして、戦後の理想であった個人主義は、その行きすぎとして「孤人主義」と揶揄され、批判される。

 政治的立場を異にし、新人類・バブル世代の別のノンフィクション作家も「電車のなかは社会の縮図である」(星野博美「キレる若者より怖いモノ」〈『中央公論』2001年10月号〉)というおなじみのことばを挙げながら、似たようなことを論じている。電車のなかは、大人の成熟度のバロメーターになっており、車内が荒れているとすれば日本社会の幼稚さを示している。

 一方で、ケータイによって「世界は俺の部屋」になっており、私たちがそれを利用する若者たちに嫌悪感を抱くのは「他人の私的空間が……(中略)……公的空間に流れ出している」ためであるという。そんなどこまでも私的な「俺」に意見するものは、「うざったい親」と同じであるという。