しかし「むやみに否定から入らず、褒めから入る・いいところを探そうとする」という、物事に対する基本的な構えは何においても必要だ。

 だからマスコミが「パリ五輪開会式最高」と言っているのを聞いたとき、私などは(マスコミ側の人間でありながら)反射的にアンチマスコミのスイッチを入れそうになるのだが、本当はきっとその必要はなく、マスコミが偏りがちなことを念頭に置きながら、しかし「褒め」から入る美徳を褒めつつ、「どのような言い分かを話半分で聞き流す程度」が心がけられればいいと考えている。

 それで今回は「とにかく尖っていたところがよかった」とマスコミが言っているようなら、「尖っていた部分はたしかに評価できるけど、その点が多くの人に受け入れられなかったのだね」と、次になる段階に議論を進めることができるわけである。

過去の芸術プログラムはおおむね好評
パリと東京がみっちり批判された理由

 今でこそ様々な利権や思惑が錯綜する伏魔殿がごとき一面を持つに至ったオリンピックだが、出発点は「スポーツを通じた平和の祭典」である。

 近代オリンピック(1896年アテネ大会以降の総称)のうち最も商業的に成功したと言われる1984年のロス五輪の開会式では、“ロケットマン”がジェットパックによる空中浮遊を披露して世界中に衝撃を与えた。

 開会式で行われるこうしたショーは、1996年版オリンピック憲章内では「芸術プログラム」と称され、開会式の中で参加者が見るものとして位置づけられていた。上記のロス五輪はオリンピックの商業化路線への転換点となったとみなされており、芸術プログラムも上記のロス大会以降、一層の気合いを入れて制作されるようになった。

 そこで夏季五輪の開会式をざっと眺め渡してみると、ハト焼死(1988年ソウル)、当て振り(2000年シドニー、発覚は2008年)、口パク(2008年北京)などのアクシデントや騙しは散見されるのだが、開会式全体の評判はおおむね芳しい。各都市、自国の歴史などをダンスや演劇などに乗せて紹介するスペクタクルは、開催都市間で予算の違いこそあれ、どれも見応えのあるものに仕上がっていた。