すると、みっちり批判にされた開会式といえば、記憶の新鮮さも手伝ってやはり東京とパリが思い出されるのである。

 2020東京五輪の開会式は、主要なチームや関係者が幾度も解散、解任、辞任となり、また出演者の直前の出演辞退があったりして、事前から混迷を極めた。迎えた本番、ピクトグラムやMISIAさんの『君が代』などは好評だったが、コロナ禍での開催という難しさもあって、開会式全体としては「地味」や「まとまりがなく、何を伝えたいかわからない」といった批判が寄せられた。

 一方今年のパリ五輪開会式は、しっかり準備をして、万全の態勢で臨まれた。当日は天候に恵まれず、ダンサーのストライキやTGV設備放火といったトラブルも相次いだが、それでも芸術プログラムは予定通り敢行された。その、満を持して披露された渾身のプログラムが炎上して今に至る。

 開会式の運営が、どれだけ炎上したとしても開き直って「あれはああいうエンターテイメント」と言い切ってしまえば、相応の説得力が備わったかもしれないが(その場合フランスへの信頼が大きく損なわれるなど、失われるものも多かったろうが)、実際は現在IOCが前代未聞の謝罪や開会式動画削除などの火消しに動いているので、「一旦は自身のやらかしを認めて傷を広げない守りの方針」を取るようである。

「大学生の文化祭並み」
クリエイティブへの挑戦が招いた「やらかし」

 私は初めてパリ開会式を目にしたとき、真っ先に「大学生が文化祭でやらかしてしまっている様子」を連想した。攻めて尖った表現ではあるのだが、尖りすぎたがゆえに排他的となり、ごく一部にしか刺さらないジョークは、刺さらない人から見ればただただ居たたまれない。

「その若気の至り的な創作を何も文化祭という場でやらなくていいのに」と思うのだが、大学生は文化祭という場だからこそ発奮してそれをやったわけだし、私自身、大学1年のときにクラスの自己紹介で笑いを取りにいって失敗し、あげく留年したやらかしを経験しているだけに、パリ開会式にみなぎっていた「表現したい欲求」と「それが空回りする怖さ」が痛いほど理解できるのである。