【解説:創作か実話かはどうでもよい、とにかくお岩は祟るのだ】

『東海道四谷怪談』は日本を代表する怪談歌舞伎なので、その筋立てについても隙がない。こちらのお岩は明確に死ぬ。産褥と毒と怒りで立ったまま悶死した後、さらに刀が咽喉(のど)に突き刺さるという「念入りで過剰な死の儀式が見せつけられている」(高田衛『お岩と伊右衛門』、2002)。そして死後すぐ怨霊となって祟り、最大の敵役である伊右衛門の死が劇の大詰めとなる。かたや『四ツ谷雑談集』の展開はダイナミックさに欠ける。お岩のくだりは上中下巻のうち上巻のみで終わりと、全体の3分の1だけだ。

 あとは伊右衛門たちが病死や事故死、殺人により亡くなっていく様が長期間をかけてダラダラと描かれていく。お岩の幽霊も明確には登場せず、病人の混乱した幻覚、生きたお岩が姿を見せただけともとれる書き方をしている。霊媒によるお岩の口寄せシーンもあるが、憑依したのがお岩の死霊なのか生き霊なのか定かではない。『四ツ谷雑談集』では、わざとお岩の生死を曖昧にしているようにすらとれる。

 しかしだからこそ逆に、実話らしいリアリティを感じさせるではないか。実録といいつつ、その内容はほぼフェイクだろう。しかしお岩のモデルとなった女性が虐待を受け失踪し、加害者側の一族で不審死が連続した事実はあったのではないか。当時の大衆がそれを怪談ゴシップに変換したのでは……とも想像してしまう。

『四ツ谷雑談集』の他にも、四谷怪談の元ネタとしては『於岩稲荷由来書上』(1827)が挙げられる。ただしいずれの資料でも、お岩は三番町の武家屋敷に奉公しており、ここが『東海道四谷怪談』にはない要素だ。どちらも怒り狂ったお岩が西=四谷方面へ駆け抜けていくのだが、そのルートはどう推測できるだろうか。当時の三番町は、現在の九段南三、四丁目。まっすぐ西進したなら市ヶ谷御門(現・市ヶ谷駅)の前を通り過ぎたはずだが、そのまま堀の土手沿いを走ったかどうか。現在もなお細く曲がった走りにくい道なので、六番町(現・二七通り)へと坂を上ったのではないか。

 市ヶ谷御門前の坂は「切通坂」だが、これは別名「帯坂」ともいう。「番町皿屋敷」のお菊が髪ふりみだし帯をひきずって逃げた坂だから、というのがその由来だ。

 千代田区設置の案内板には、お菊が坂を上ったか下りたかについては言及されていない。しかし五番町の屋敷から遁走したなら、半蔵門駅から市ヶ谷駅への方向となるので、おそらく市ヶ谷御門から堀外へ出ようとしたと察せられる。

 つまりお菊は帯坂を「下りた」。逆にお岩は帯坂を「上った」。

 お菊とお岩。たびたび比較される2人の怪談スターは、番町の同じ坂を、それぞれの方向にすれ違っていたのである。虐待から逃げようとした末に殺され、恨み言をつのる怨霊となったお菊。自らを騙した敵へと突撃し、生死不明のまま怨念を拡散したお岩。

 いずれも武家の男たちへの逆転劇・復讐劇を果たす女性ではあるが、彼女たちのタイプの相違が、そのまま疾走する方向の違いとなって表れているようだ。
書影『教養としての最恐怪談 古事記からTikTokまで』(ワン・パブリッシング)『教養としての最恐怪談 古事記からTikTokまで』(ワン・パブリッシング)
吉田悠軌 著