3日目の朝、早く起きだして自分でお茶をいれながら、洞窟の入り口から光が刻々と差し込むのを寝不足の目でみていました。洞窟に住んでいた人たちは、光がどんなに嬉しかっただろうと思いました。
ソンドン洞窟を出るのが、直線距離にしたらすぐのように見えるのに、地下を迂回して1時間強かかり大変でした。砂漠のような洞窟の地表、石のテラス、洞窟パール、鍾乳石や石筍……見たこともないものが次々とあらわれました。気の遠くなる時間をかけて形成されているのに、私たちのような少数の人だけしか見ることができない。地球の不思議を実感しました。
洞窟の中の湖を、ベトナム国旗のついたボートに乗って渡りましたが、後ろのみんなが乗ったいかだの光が遠くなったり近くなったり、ときどきゆらゆら揺れて、洞窟の壁は自分のヘルメットの灯りでぼんやりとしか見えず、やはりパニックになりそうでした。
細い洞窟内の湖をやっと渡りきり、梯子の下にボートが着きました。ライフジャケットを外し、カラビナと命綱を伝って、80メートルある「ウォール・オブ・ベトナム」と呼ばれるほぼ垂直に切り立った壁面をよじ登って、出口に辿り着く難所を一番に上りました。
洞窟の環境はほとんど無機質ですが、途中、天井が水圧で陥没してできた切れ目(ドリーネ)には太陽光が届くので植生があり、そこだけ無機質が終わっていたのも印象的でした。コウモリの糞を栄養にして育った植物だとか。
2つ目のドリーネを越え、ここから山を降りるまでも雨で滑る険しい岩場を下るという、かなりの難しいルートでした。
ちなみにソンドン洞窟は18歳以上でないとツアーには参加できず、出発前には健康状態のチェックも厳しく行われます。
このような、命がかかっている緊張状態を3日間も一緒に過ごすと、人間は否が応でもチームになることを実感します。気を抜いたら本当に死がすぐ隣にある畏れ、携帯の電波も通じません。普段やっぱり究極まで人工化された暮らしをしているんだなと実感しました。夜が夜で、闇が闇であることも普段は忘れているのだと思い出させてくれる、自然の圧倒的な力でした。
林 菜央 (著)
定価990円
(朝日新聞出版)
ホテルに帰り着いてよく見たら、体のあちこちに大きな痣ができていました。
しかしなんだか、洞窟という地球の子宮を抜けて生まれ変わったような不思議な気分でした。
査察ミッションのあとでは、通常100ページほどの報告書をチームの他の専門家と相談しつつまとめることになります。
「ファンニャ=ケバン国立公園」の案件の場合は、ケーブルカー建設については全面的に停止することを勧告しました。人為的な観光客の増加により、洞窟の生態系や状態が大きく影響を受けること、またその影響は洞窟部だけではなく公園全体に波及すると判断したためです。
(世界遺産条約専門官・林菜央)
日本人唯一のユネスコ世界遺産条約専門官。上智大学、東京大学大学院で古代地中海・ローマ史専攻。フランス政府給費留学生としてパリ高等師範学校客員研究員、パリ第四大学ソルボンヌ校で修士号取得、ロンドン大学で持続的開発も学ぶ。在フランス日本大使館の文化・プレス担当アタッシェを経て、2002年よりユネスコ勤務。ユネスコ・博物館プログラム主任などを経て現職。
※AERA dot.より転載