「スティーブ・ジョブズがホテルオークラの寿司屋で“unagi sushi”を食べた」プロ翻訳者はどう訳す?Photo:PIXTA

スティーブ・ジョブズやジェフ・ベゾスなど、数々の成功者の本を手掛けている、翻訳者の井口耕二氏。原文と翻訳本では、地名や文化などに関して読者の前提知識が違うため、原文と同じ理解を得るために訳文によって補足する必要があるという。※本稿は、井口耕二『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋 フリーランスが訳し、働き、食うための実務的アイデア』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。

原著に当たり前のように出てくる
地名について訳者は補足説明すべきか

 米国では常識でだれもが知っているけど日本では知られていないことがあった場合、米国向けの『スティーブ・ジョブズ』には書かれていません。その常識のギャップは日本語版を作る際に埋めないと、米国の読者には伝わることが日本の読者には伝わらない本になってしまいます。それが「原文で言外に語られていることを訳文では明示する」です。逆に、「原文で明示されていることを訳文では言外に押し出す」というのもよくやります。

 補足という言い方をするとなにか足しているように聞こえるので、翻訳ではすべきでないという意見の人もいますし、私も、足してしまうのは翻訳ではないと考えています。ですが、原文読者が当然に持っている前提知識だから書かれていないけど、訳文読者にその前提知識がないことであれば、きちんと書かないと、伝わるはずのことが伝わらない、言い換えれば、「引いてしまった」翻訳になってそれはそれでだめだと思うのです。

 たとえば地名。

 原著になにげなく出てくる地名が日本の読者にはなじみがないなんて、よくある話です。原著の著者は、自分の本を読む人ならここは知っているはず、と考え、地名だけぽんと出しているわけですが、その本を翻訳するというのは、その著者が想定した対象読者とは異なる読者層に届けようとする行為なのですから、原著者の想定が外れてしまうのです。

 そのとき、それがどこなのか、どういう場所なのかを補足するのは、「足す・引く」行為なのか、それとも、「足さない・引かない」行為なのか。

 一般に、これは、「足す・引く」行為とされているようです。でも、私は、これは「足さない・引かない」翻訳だと思っています。それがどこなのか、どういう場所なのかは、原文に書かれていることを訳出しただけだ、と。暗示的に書かれていること、ですけどね。また逆に、そこを「訳出」しないのは訳抜けだとも思います。

すべての文章は想定読者に
あわせた省略をおこなっている

 自分が文章を書くケースを考えてみましょう。