想定読者が常識として知っているはずのことなら、わざわざ書かないのが基本ですよね。そうでなければ、なにからなにまで事細かに書かなければならなくなってしまいます。それこそ、この段落なら、「想定」とはなんぞや、「読者」とはなんぞや、「常識」とはなんぞやというところからして。そんなことをしていたら、言いたいことが埋もれてわけのわからない文章になります。

 ですから、想定読者が知っているはずのことは書きません。これが、小学校の低学年向けだったら、想定読者とはなんぞやとか、そういうところから書かなければならないわけですが(だれに読んでほしいのか、それを考えて、その人だったら、このくらいは知っているはずと思うことは……みたいに?)。

 言い換えると、どんな文章も、明示的に書いて説明していることと、読者はこのくらい知っているはずと著者が考えていること(だから、明示的に書きはしないという選択をしたこと)でできているわけです。

 いや、書かれていないことは文章を構成する要素のはずないじゃんと思う人もいるでしょう。でも、明示的に書かれていないことがわからないと、つまり、その文章が前提としている知識がないと、読んでもなにがなにやら理解できませんよね。そういう前提知識から順に説明されればわかるはずなのに。

説明をするのは「引かない翻訳」
説明を省くのは「引いちゃった翻訳」

 地名に話を戻し、具体的に考えてみましょう。

 著者は、「ああ、あそこね」と読者が思うはずと考えて書いているわけです。それが、原文読者が受け取る絵です。ところが、翻訳で同じように地名だけをぽんと提示したら、訳文の読者は「それ、どこよ?」と思ってしまうでしょう。これでは、受け取る絵が、原文と訳文で異なってしまいます。

 訳文の読者も「ああ、あそこね」になるべく近いものが受け取れるようにするには、それがどういう場所なのか、文脈に即した説明を入れる必要があります。原著の著者も、訳文の読者を想定して書けばそうしたはずです。そうすれば、「ふーん、そういうところなんだ」くらいにはなりますから。