父親はなぜ、中国語で手紙を書いたのか

 まずは、「あまりにも中国に寛容すぎる」という点は、筆者も同意する。

 だが、中国のネットに流れた情報によると、父のDさんの勤め先には、確かにAさん、Bさんの姓を持つ人物がいることもわかった。

 決定的だったのが、その3人の勤め先がかつて「友好商社」と呼ばれていた企業だったことだ。

 友好商社というのは、中国との国交回復(1972年)よりも前から中国とつきあいのあった商社のことだ。それらの創業者はほぼ、国交回復前の中国共産党関係者と特殊な関係を持っていた日本人(あるいは華僑)で、その特殊な関係から国交のない日本との貿易を認められていた。そして、友好商社は中国が求めていた工業製品や工作機械、医療機械や医薬品の輸出を手掛け、また中国製食品や材料、農作物の輸入などを行っていた。当時は冷戦時代で、対共産圏輸出統制委員会(COCOM)の基準をクリアする精密機器を共産国中国にいかに送り出すか、そのノウハウを持っていたのが友好商社だったのである。

 そんな友好商社は、国交回復後しばらくはその特殊ルートで独占的に中国貿易を手掛けることができた。だが、1980年代に始まった改革開放政策、そしてなにより米国が中国との国交を結び、国際的な締め付けが変化したことにより、中国は伝統的大型商社との付き合いを望むようになり、また日本産業界の中国ブームによってそのお株を奪われた結果、友好商社はその役割を終え、閉業、合併などで姿を消したものもある。

 Dさんたちが勤めていたのは、それを生き残った、昔からの友好商社だったのである。こうしたバックグラウンドがあるからこそ、企業内のムードもまた、一般的なメーカーや企業などに比べてずっと親中的だったことは想像に難くない。そんな環境下で働いていたDさんにとって「日中友好」や「日中の架け橋」という言葉はそれほど特異なことではなかったはずだ。

 そうなると、「人生の半分近くを中国で過ごしてきました」という彼が中国語で社内に宛てた手紙を書いたことも不思議ではない。上司2人は日本人であろうとも、今や連絡ツールとして利用されているSNS内にある社内グループに向けて、日本人上司に宛てつつ、心配してくれているだろう中国人社員にも読めるように中国語で手紙を書くというのは自然なことだったと思われる。