「三位一体」を「三つで一つのセット」という意味で使ったことはありませんか?
国立国語研究所の教授が「雑な文章」を「ていねいな文章」へ書き換える方法をbefore→after形式で教える『ていねいな文章大全』より、「三位一体」の使われ方に対する違和感について紹介します。(構成・写真/ダイヤモンド社・今野良介)

本質は「三つで一つのセット」ではない

私自身はクリスチャンですが、その立場から見て誤用が目立つのが「三位一体」です。

小泉内閣における聖域なき構造改革の一環として生まれた、国から地方への税源移譲の政策は「三位一体の改革」と呼ばれます。

国庫補助負担金、税源移譲、地方交付税の見直しの三つを一体として行う地方分権推進政策のことで、日本のなかでこの「三位一体」という言葉は、「三つで一つのセット」というときに使われます。

しかし、キリスト教の教義における「三位一体」は、一つのものが三つに分かれるというのがその本質であり、その違いは大きいのです。

当時「骨太の改革」が流行ったように、「三位一体」もまた、政策によい印象を持ってもらうことを意図したキャッチフレーズでしょうが、そうしたところに違和感を覚える人がいることも知っておく必要があるでしょう。

「三位一体」は「神学論争」から生まれたものですが、この「神学論争」というのも不毛な論争という意味で使われます。しかし、本来の「神学論争」はそうしたものではありません。

「三位一体」の使われ方に対するクリスチャンの違和感について

言葉の無神経な使い方に疑問を抱いているのは、おそらく仏教界も同様ではないかと思われます。

【Before】
お経のような退屈な研修に、眠気をこらえて参加した。

お経を退屈なものと決めつける態度に反発を持つご住職も少なくないのではないでしょうか。

仏教界において、「お経」というのが好ましくない意味で使われることに憤りを覚えている関係者もきっといるはずです。

【After ①】
難しい教科書を棒読みするような退屈な研修に、眠気をこらえて参加した。

そもそも「宗教」という言葉自体、根拠もなく怪しいものを信仰しているという偏見のもとで使われることが日本社会では多いように思います。

拙著『ていねいな文章大全』では、このほかにも、テキストコミュニケーションにおけるポイントを、すべてbefore→after形式で豊富に紹介しています。