ここから始まり、プロのスイングと自分のスイングをディスプレイ画面で比較する「動画解析システム」を開発、高校時代の友人に見せたところ、「これは野球でも使える」と西武ライオンズの二軍監督に就任予定だった広野功を紹介された。
広野は野球のバッティングで同様の動画解析を行っていたが、テレビ局に依頼するなど手間ひまがかかった。片山のシステムの方が素晴らしい、と球団で使用したいと申し出た。これに当時の西武監督、森祇晶も興味を示した。こういう形で片山はプロ野球の世界に足を踏み入れた。
1995年の日本シリーズを機に
アソボウズの名前が広まった
西武は球団の数々のデータを片山に開示した。それらをつぶさに見た片山はスコアをコンピュータで記録する「スコアメーカー」を開発し、システムエンジニアの黒羽展久とともに株式会社アソボウズを創業した。
「スコアメーカー」は正式に発表する前に、慶應義塾大学野球部に試作品を提供し、テストした。この時の慶應大側の担当者が現「トラックマン」野球部門責任者の星川太輔だった。この時期から、星川をはじめ、有為の人材がアソボウズとつながっていくようになる。