しかし、「この相手とやり直すのは無理」と考えが整理できた時には、同時に別れを切り出す決心がついているし、その後に待ち受ける新しい生活をスタートさせる覚悟もできている。この心の状態はまさしく「禅」の境地である。

 つまり、私が「考える禅」という時、考えて目の前の課題を解決することで、自分自身の心も、そして社会全体をさえも、禅の穏やかな境地で包んでいくことを意味している。これまでも、お坊さんとしての常識にとらわれずに「仏教かくあるべき」を突き詰めて考えることで、仏教界を包んでいた閉塞感を打ち破ってきた。シングルファザーとしても、「考える育児」を心がけていけば、自分自身の心のなかも、家庭の環境も好転していくにちがいないと信じていた。

経典から学ぶ
「正しく生きる」の意味

 このような仏教理解は、日本においては珍しいと思う。しかし、仏教が「正しく生きる」ことを説いたのは言うまでもないが、「正しく生きる」ために重んじたのは「考える」ことである。『スッタニパータ』という最初期の経典を読むと、お釈迦さまは人間の「知性」を信頼していたことがうかがえる。

 苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々――かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。(『ブッダのことば』中村元訳、岩波文庫)