私だって、本堂での朝勤行を今まででいちばん真剣につとめたのは、父親の手術前だからである。手術当日まで、朝勤行は檀家さんの先祖供養よりも、ひたすら父親の病気平癒を祈る時間だった。世間一般では仏壇のない家庭が当たり前の時代に、私は祈るための空間のなかに住まわせてもらっているのだから、なんと恵まれていることかと知った。
しかし、断捨離して穏やかな生活を過ごすのも、神仏に祈りながら暮らすのも、誤解を恐れずにいうと、現実逃避的であるのは否めない。たとえば本堂にこもって坐禅や念仏をしているあいだは、育児や家事からも解放されてメンタルが調うだろう。だが、いざ家庭の生活に戻れば、山積みになっている調理や洗濯などのタスクは、坐禅や念仏で時間をロスした分だけ余計に私の心身を苦しめる。
「考える禅」と
「考える育児」
では、私はいかにして仏教を生活の中で用いているのか。
まったくお坊さんらしくないやんちゃな生き方をしながら、お坊さんとして胸を張って生きていられるのはなぜか。
私は仏教を「考える宗教」だと理解していて、「考える禅」を日々実践しているつもりで生きている。
「考える禅」というのは耳慣れない言い方だろうが、たとえば男女間の関係がもつれにもつれた時、「別れようかなぁ」「今の相手とやり直そうかなぁ」と悩んでいる時は気分が晴れない。