小学生の頃から貸本屋でマンガを読み漁り、描き始めもした。手塚治虫に大きく影響を受けるもオリジナリティを模索し、試行錯誤の末に自分なりの絵柄を完成させた。

 高校3年生時、水谷武子さんと共作した『森の兄弟』でデビューし、その後はしばらく奈良県の実家で執筆を続けていたが、26歳のときに上京した。当初泊まるところはなかったが、知り合いの紹介で池袋の3畳半の安アパートに住み始めた。

売れっ子漫画家の一方で
演技も歌手も、の多才ぶり

 昼はマンガを描き、夜は時間が空いたので劇団ひまわりに所属して演技やバレエを習った。映画・ドラマにエキストラ出演するために丸坊主にされたこともあったという。

 しかし1人で描くマンガと違って、誰かと協力する現場の仕事には別の楽しみがあった。それでもそちらを切り上げてマンガに専念したのは、劇団で宗教への勧誘があってそれが嫌だったからという話もあるが、マンガの仕事がおそろしく忙しくなってもいたからでもある。

 連載の月刊誌3本と週刊誌3本に加え、読み切りもこなした。「朝8時に起きて午前4時まで仕事」という生活をしていたそうで、氏は「〆切を一度も落としていないのが自慢」と当時を振り返りつつ、「毎日死ぬ」と思いながら描いていたそうである。

 1968年、激務がたたってか体調を崩し、執筆する雑誌を徐々に『週刊少年サンデー』へと絞っていった。するとだいぶ楽になったので、今度は作詞作曲を始め、自作テープをレコード会社に持ち込んだところ、歌手デビューが決まった。すると、今度は音楽の仕事が増えて、郷ひろみさんの曲を作詞するなどした。

 マンガの連載は並行して行われていて、『週間少年サンデー』で『おろち』(69~70年)、『アゲイン』(70~72年)、『漂流教室』(72~74年)、『まことちゃん』(76~81年)など、数々のヒット作が生み出されることになる。

 なお、『まことちゃん』作中に出てくる『ビチグソロック』(1976年)という曲が実際にリリースされ、マンガと音楽の活動がリンクすることもあった。