しかし、監督として選手を引き揚げさせる行為はいけません。当時は私もそれなりにセ・リーグでは経験を積んできていました。“国民的行事”でもある日本シリーズの場でトラブルを起こしてしまった私は、真剣にクビを覚悟しました。逆に、それだけの覚悟で日本シリーズに臨んでいます。パ・リーグの先輩審判員と相談しました。
「退場させましょう」
「もう少し待て。仰木監督を説得するから」
「お任せします」
連れション中西太が助け舟
「親分を俺が説得するから」
本来、審判はグラウンドから下がってはいけないのですが、私が絡んでは事を荒立てると憂慮し、中断の間に私はトイレを済ませようとしました。偶然隣には中西太ヘッドコーチ(オリックス)がいて、並んで用を足していました。
「おお、井野君。大変だな。今、親分(仰木監督)もカッカしてるが、俺が説得するから。もうちょっと待ってくれや」
先輩審判員の小林毅二さん(1946年生まれ、審判員歴通算32年、2898試合出場)、五十嵐洋一さん(1946年生まれ、審判員歴通算32年、2821試合出場)らの説得、ご尽力で試合は再開されたのです。
結局、5対2でオリックスが勝って仰木監督初の日本一。
1995年1月の「阪神・淡路大震災」から復興のシンボルとしてのオリックスは、1995年リーグ優勝、1996年日本一で、合言葉『がんばろうKOBE』のストーリーを完結させたのです。
あの試合に巨人が勝っていれば、おそらく翌日のスポーツ紙1面で、「井野審判、巨人びいきの判定」と、見出しがデカデカと出たのでしょうね。実際は2面の片隅にベタ記事が載ったぐらいでした。
そういえば、レフトは田口壮選手、センターは本西選手、ライトはイチロー選手という全員がゴールデングラブ賞受賞選手でした。
1978年阪急(現・オリックス)のバーニー・ウイリアムス選手、福本豊選手、簑田浩二選手。2006年日本ハムの森本稀哲選手、SHINJO(新庄剛志)選手、稲葉篤紀選手らと並ぶ、3人ともゴールデングラブ賞の鉄壁の布陣でした。
「捕った、捕った。本西さんは捕ったんだ!」
子供のようにそう声を上げていたのは高卒プロ5年目、まだ23歳、紅顔の美少年のイチロー選手でした。
それにしても当然ながら「リクエスト」がない時代、今初めてYouTubeであのシーンを見てみると……、やはり私のミスですね。止まってプレーを見ないで、走りながらジャッジしているから目線がブレます。基本を疎かにしています。反省点です。
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