平野 だから今、何にお金を払うかは大きな問題になっています。その意味で、時間にお金を払うという面もすごくあると思うんです。たとえば、僕はフリーランスで仕事をしていますから毎年確定申告しなければいけません。もちろん自分でやろうと思えばできるけど、そのために自分の時間を費やすよりも税理士にお金を払って任せた方が断然いい、と思ってしまう。しかも、みんなの体感時間が、頭で考える以上にかなり変わってきている気がします。僕自身、情けない話ですけど、家で映画のDVDを2時間ずっと見るという行為がだんだんしんどくなってきて(笑)。

山口 いや、よく分かります。You Tubeの10分くらいの映像に慣れると、なかなかそれだけまとまった時間を費やせなくなりますよね。

平野 極端な話、20世紀初頭の人はマルセル・プルーストの長編小説『失われた時を求めて』(全7編の超大作)を延々と読み続けることができたかもしれないけれど、人生の中であの作品を読むことに時間を費やす覚悟ができる人は、これからどんどん少なくなっていくと思うんですよね。実際は、自分の本棚に並んでいる本の全体積は、明らかに『失われた時を求めて』より大きいから、読もうと思えば全然、読めたはずなんですけど、手が伸びない。

 小説は時間芸術ですから、特にその傾向が強くなると思います。絵や彫刻であれば、鑑賞する側がそれに付き合う時間は数秒から数分で済むので、多少作家が無茶をした作品でも受け入れられますが、小説でメチャクチャなことをやると読者は読むのに苦労するし日数もかかってしまう。当然、読者はそんな思いをしたくないので、受け入れる間口はどんどん狭くなってしまう。だからこそ前回も言いましたが、小説ではある規模以上の長さの、複雑な世界を描こうとすると、何らかの形でリーダビリティを確保しなきゃいけないという理屈になる。

山口 読者が小説を受け入れる心は、時間感覚に伴ってどんどんシビアになってきている、というのが現在なんですね。

平野 ただ逆説的ですけど、「信頼を得る」ために自分の時間をある程度、費やさないといけない、というのも事実だと思うんです。

 山口さんが最初に10年くらいかけて貨幣論について考えてきたと仰ったけれど、それは僕も同じなんです。作家の仕事において、自分が考えるテーマを深めていく意味でも、文体を成熟させる意味でも、10年単位の長い年数やり続けていかないと達成できないことがあるんですよね。しかも、それを同じ読者に継続して見ていてもらわないと成立しない。だから作家にとって、読者の信頼感はとても重要になってくるんです。「あいつの本にはいい加減なことばかり書いてある」と思った瞬間に、読者は僕の本を読むことをやめてしまいますから。