「信用のポートフォリオ」が可視化される時代
分人化と信頼をどう両立していくのか

平野 それについて、僕は次のように考えているんです。人間は分人化しながら生きていますけど、それぞれの相手との間ではそれぞれ一貫性をもっていなければいけない、と。あるいは変化するにしても、相手の理解の下に変化していくべきだと。目の前の相手との一貫性を壊すような形で分人化していくと、仰るように信用形成はうまくいかないと思います。でも、それぞれの人との関係性のなかで一貫性を保つことは可能ではないでしょうか。

山口 なるほど、全体としてみたら一貫性がないように見えても、個々のネットワークにおいては一貫性を保っていく、ということですね。

平野 ある個人の中にある「分人のポートフォリオ」と同じように、「信用のポートフォリオ」みたいなものがあると思うんです。仮にの話ですが、僕は文学の世界では信用されているとする。同時にアートについても書いていて、その世界でもある程度は信頼されている。でも全然関係のない土木技術か何かについていい加減な評論とか書くと、そのジャンルの人からは「あいつ何も知らないくせに、変なことを書きやがって」と信用されない。

 問題なのは、ある人を信頼できるかどうか判断するとき、このような信用のポートフォリオみたいなものが、ネット上の評判とかいろんなものを通じて可視化され、見える時代になったということ。これまでなら自分がいない場所での他人同士のやり取りは、原理的にほとんど見ることができなかったけれど、それすらもSNSの普及によって可能になった。

山口 ある1人の人間の交友関係がフェイスブック上などではっきりと見えるのが、今は当たり前になりましたよね。その場合、個々のネットワークにおいて一貫性を保っていても、結局全体としての一貫性のなさが露呈して、信用が崩れるということはないでしょうか?

平野 さっきのたとえ話の続きをすれば、たとえば僕にアート関係のレビューを書いてもらおうと思った人は、ネット検索などを通じて僕の信用のポートフォリオをおおよそ見ることができるわけですよね。すると、アート界では信頼されているけれど、土木業界では信頼されてないことがすぐに分かる。いや、土木について何も書いたことないですけど、例えば(笑)。その時に、土木関係は今回依頼したい仕事と関係がないから、まあいいか、という判断になるのか、一般的にコイツはよく知りもしない分野でいい加減なことを書く人間なんだな、という判断になるのか。そういうことはありますよね。

 あと、分人がどれほど異なっても、思想は共通しているのではないか、とは思います。たとえば、死刑賛成派の人たちの前では賛成だと言い、反対派の人たちの前では反対という、というのは、やっぱり間違ってる。僕は死刑制度に反対ですけど、ただそれは、根本的に僕の中に核としてある「本当の自分」がそういう思想を持っている、というより、やっぱり、これまでの分人化を通じて、死刑制度に反対する気持ちを強く持った分人が、結果的に他の分人にも影響を及ぼしている状態、というふうに考えるんです。だから、思想は本や人との出会いによって、良くも悪くも変わる可能性がある。その変わり方によって、また信頼されるかされないか、ということもあるでしょう。