アサド政権の後ろ盾「中東の大国イラン」はなぜ親日?今も日本に恩義を感じる「70年前の出来事」とは写真はイメージです Photo:PIXTA

2011年以来のシリア内戦で自国民50万人以上を殺したアサド政権が、2024年12月に崩壊した。地域大国のイランは、ハマスやヒズボラ、そしてアサド政権に膨大な支援を注ぐことで存在感を示してきたが、その戦略はシリアで破綻した格好だ。そんな中東の大国イランは、日本とはまるで相容れないように見えるが、じつは熱烈な「親日」のお国柄だとか。いったいどんな理由があるのか……。※本稿は、池上彰著『歴史で読み解く!世界情勢のきほん 中東編』(ポプラ社)の一部を抜粋・編集したものです。

イギリス企業から奪った石油を
イラン政府は出光興産に売った

 1953年4月、日本の出光興産のタンカー「日章丸」が、イギリス海軍の厳重な警戒網をくぐってイランに到着します。後に「日章丸事件」と称される出来事でした。

 当時のイランは、第二次世界大戦後にイギリスやソ連の影響下から逃れ、モハマド・レザー・パーレビ(パフラヴィー)国王のもとで独立を果たします。ところがイランで見つかった油田はイギリス資本の会社に管理され、イラン政府は手が出せない状況でした。そこで1951年、首相のモハマド・モサデクは、石油の権利を自分たちに取り戻そうと、イギリス資本の石油会社を国有化します。

 これに怒ったイギリスはイラン近海に軍艦を派遣し、イランに石油を買い付けにきたタンカーは撃沈すると宣言します。軍事力をバックにした経済制裁でした。

 一方、出光興産社長の出光佐三(さぞう)は、イランが石油を輸出できなくなった窮状を見て、石油買い付けのチャンスと判断。同社のタンカー「日章丸」を極秘裏に送り、イギリス海軍の監視の目を盗んでイランの港に入り、石油を買い付けたのです。文字通り「助け船」でした。

 これは世界に大きく報道され、イランの国民は「日本が我々を助けてくれた」と歓迎。これ以降、イランは親日国家となります。実は過去にもイランは帝政ロシアによる南下政策に脅威を感じていたところ、日本が日露戦争でロシアを破ったことを歓迎していました。そんな歴史的背景があったのです。