現在の旧アメリカ大使館は「反米博物館」となり、当時のアメリカ大使館の実態がよくわかるようになっています。私も中に入ったことがあります。館内にはCIAテヘラン支局もあり、パスポートの偽造が行われていた場所が見られるようになっています。

 なお、パーレビ国王は治療が済むと、同年12月にはアメリカから出国させられ、1980年7月に亡くなるまでエジプトで亡命生活を送りました。

 アメリカでは、イランの大使館における人質事件への対応をめぐり、カーター政権に対する風当たりが強まります。なぜ大使館員たちを救出できないのか、弱腰ではないかと、国民の不満が高まり、カーター大統領は1980年11月の大統領二期目を目指す選挙で、ロナルド・レーガンに敗れたのです。

イスラム革命の混乱に乗じた
フセインの侵攻は裏目に出た

 イラン・イスラム革命は当初、ホメイニ師をはじめとしたイスラム勢力のみならず、民主化を目指す人々やイラン共産党など多様な勢力が加わって進められていました。しかし徐々にイスラム勢力が主導権を握り、革命が成功を遂げると、前政権に関わっていた人たちをはじめ、反ホメイニ派や共産党員たちは次々に逮捕され、処刑されます。容赦のない弾圧でした。

 こうして1979年、国民投票によって、ホメイニ師が唱える「イスラム法学者による統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)論」が盛り込まれた憲法が制定され、イスラム国家が樹立されたのです。

 このホメイニ師が唱えた「イスラム法学者による統治論」こそが、イランにおける「最高指導者」の存在を規定しているのです。これは、イスラム教シーア派がイランの国教であることと関係しています(編集部注/イランの人口の90~95%がシーア派とされる)。

 イラン革命の初期の混乱を見た隣国イラクのフセイン大統領は、1980年、イランに攻め込みます。「イラン・イラク戦争」の勃発です。スンニ派のフセイン大統領は、イランのシーア派による影響力が強まるのを恐れ、イラン・イスラム革命を失敗させようと考えたのです(編集部注/イラクの人口の60%ほどがシーア派とされる)。

 ところがイラク軍の侵略に驚いたイラン国内では対立抗争が止まり、一致団結してイラクと戦おうという機運が高まりました。結果としてイスラム革命は成功するのです。