そして翌日以降、各部長がそれぞれ私に記事の内容、読売で記事にできる可能性のあるテーマを聞いてくるのですが、あまり書く気がないのは私にも伝わってきます。そして、最後に彼らが必ず言う言葉がありました。

「渡邉委員長によろしくお伝えください」

 私は文春の人間で、渡邉氏は自分の会社の幹部。もはやその時点で、読売新聞の部長クラスが渡邉氏の独裁に逆らおうとせず、忖度の固まりとなっていたのです。会社とはいえ、メディアです。経営については、ある程度上司の言うことは聞かざるをえないでしょうが、記事の中身まで幹部の言いなり……こんな新聞社でいいのだろうか。私は心底、読売の記者たちに同情しました。

メディアにふさわしくないリーダー
直感でそう思った理由

 そして、渡邉氏がメディアのリーダーとしてふさわしくない人になるだろうと直感的に感じました。多様な意見を聞き、多角的な視点で世の中を見て記事にするのが、大メディアの仕事です。それをたった1人の人物が、ずっと「主筆」を名乗り続けて、言論を支配し続けることなど、まさに言論の自由を侵害する可能性があることで、国民の知る権利に応えるつもりがない心構えだと思ったからです。

 その後、私の知人だった優秀な読売新聞の記者は次々左遷されて行きました。「自由にモノが書けない」「記者活動自体に制限がかかる」といった愚痴をどれだけ聞いたかわかりません。

 確かに渡邉氏には一種の愛嬌があり、外部の人間に気を遣う人ではありました。『月刊文藝春秋』時代、編集長として2回インタビューしましたが、大変な読書量で、勉強してインタビューに臨んできます。そして、そのあと必ず手紙がきます。

「私は読売新聞一番の悪筆だから」と言いつつ、読売新聞の原稿用紙に取材への謝礼と、記事をまとめた記者のまとめ方への評価が書いてあり、そのあとには「あれくらい原稿の書ける記者は今の読売にはいません。うちにください」と付け加えてあります。もちろん、その言葉をもらった部下は嬉しそうにしています。

 編集長に在籍している間は、毎月東京ドームの巨人戦のとてもいい席のチケットが送付されてきました。突っ返すのも大人気ないし、かと言って観戦に行ったらジャーナリストとして問題です。毎回、月刊文春の印刷をしてくれる会社の人たちにもらっていただきました。