郊外電車の発達により
東京市内と市外の人口が逆転
当時の自治体「東京市」は、現在の東京都特別区(東京23区)の前身だが、その範囲は江戸時代の市街地を引き継いで、西は山手線の内側、東は錦糸町辺りまで、都心から半径5~6キロ程度の小さなものだった。
いつの時代も人間に与えられた時間は平等である。睡眠など生活に要する時間と仕事に就く時間は大きく変わらないので、移動時間に片道1時間以上をかけることはできない(もっともバブル期は2時間通勤という事態も生じたが)。つまり都市の範囲とは、生活圏と同義である。
江戸時代であれば徒歩の時速4キロ、明治末以降に整備が進んだ路面電車も最高速度は時速13キロ、停車時間も含めた平均速度はその半分程度だったので、「東京」の範囲は半径5~6キロを超えなかったのだ。
この「壁」を打ち破ったのが郊外電車だ。前々回の記事で取り上げた、中央線のご先祖である「甲武鉄道」の電車運転に始まり、山手線、京浜線が電化された。路面電車よりはるかに高速かつ高頻度運転が行われると、都心10キロ圏からの通勤・通学も容易になる。
日露戦争、第一次世界大戦を経て商工業が発展すると、首都東京にヒト・モノ・カネが一層集中した。東京市の人口は、1908年の162万人(東京市市勢調査)から1920年に約221万人(第1回国勢調査)に増加し、過密人口、住宅不足、環境悪化という限界を迎えた。
あふれた人口の受け皿となったのが郊外だ。市外の人口は1908年の約89万人から1920年は約149万人に増加。100年前、1925年の第2回国勢調査では、関東大震災の影響で市内の人口が約199万人へと微減したのに対し、市外は約249万人となり逆転した。郊外電車の発達で生活圏が飛躍的に拡大した結果である。
これを示すのが、現在の品川区荏原、中延付近にあった荏原郡平塚村の人口推移だ。「村」だったことから分かるように、1920年の人口は8522人に過ぎなかったが、1923年の目黒蒲田電鉄開業を経て1925年は8.5倍の7.2万人に急増した。
1926年に荏原町となり、1927年に同社の大井町線が開業、1928年に池上電気鉄道が五反田延伸すると、1930年には13.2万人に達した。10年で人口が15倍になったのである。急激な人口増加に対応するインフラ投資が財政負担となったことから、1932年に周辺町村を東京市に編入し、市域は現在の23区とほぼ同じ範囲まで広がった。
こうなると既存の私鉄だけでは対応しきれない。先に「実現せずに消えていった計画」があったと書いたが、政府も既設線の中間に新たな鉄道を整備したいと考えていた。実際にさまざまな企業が名乗りを上げたが、長期にわたる不況の影響で帝都電鉄を除き実現しなかった。もし実現していたら首都圏の鉄道網は大きく変わっていただろう。
100年という時間は人と街と国を大きく変えるのに十分すぎる長さだが、時代は確実に連続している。今起きている変化も100年後には決定的なものになっているはずだ。
今を生きる子どもたちは多くが2100年代を目撃し、2125年を迎える人も少なくないだろう。その時に私たちの暮らしは、交通機関はどうなっているのか、そんなことを考える年末年始だった。