鈴木修氏は、1978年6月に若干48歳で社長に就任した。
「実は前年の77年に創業者が病床に臥し2代目社長の義父が亡くなり、3代目の鈴木實治郎が脳梗塞で倒れるという事態が起きて、来年は社長にならざるを得ないと覚悟したんだ。だが、その頃のスズキの経営は厳しく、軽自動車市場は排ガス規制の影響などで半減している状況にあった」。当時のことを鈴木修氏はそう振り返った。
社長就任とともに直面した、“軽が売れない時代”という危機。その時、第1号の「アルト」投入計画がすでに進んでいたが、鈴木修氏は社長としてこれに待ったをかけ、既成概念を捨てて開発に挑み、79年5月に発売したのが初代アルトだった。
「アルト」が発表された当時、現役記者としてホテルでの発表会に臨んだ筆者も驚愕(きょうがく)したのを記憶している。軽ボンネットバンとして売り出しながら、商用車としてだけでなく乗用車としても使える。全国標準現金価格は47万円のワングレード。従来のクルマの概念を超える発想のクルマだった。
「アルトきはレジャーに、アルトきは通勤に、またアルトきは買い物に」。アルト発表会での鈴木修社長の名言は伝説になっている。修さんいわく「今風に言えば、マルチパーパスね」。
また、47万円という値段は、当時でも破格の安さだった。その頃の原価が少なくとも45万~50万円といわれる中、「35万円の原価で45万円の価格にならないか(と考えた)。どうすれば劇的に原価を下げられるのか、1円も無駄にしないものづくりを考えたね。『エンジンを取ったらどうかね(笑)』とまで言って、徹底的にコストを削ったんだ」。当時は輸送費が上乗せされた地域別価格が一般的だったが、初めて全国統一価格にしたのもこのアルトだった。
あえて乗用車でなく、ボンネットバンとしたのも、「当時、(軽)乗用車には15.5%もの物品税が課せられており、これがカットできるから」だ。さらに、「虚栄心のため(に購入されるだけ)のデラックスなどのグレードを廃して、ワングレードとしたんだ」。手の取りやすさと分かりやすさにつながった。