若くして工場立ち上げの責任者となり決断力・行動力を磨いたが、「米国駐在で大赤字を出して、帰国してから東京支店で何もしなくていいといわれた時期もあった」。それでも、「東京で当時の通商産業省や運輸省の若手官僚と付き合うことができたり、ジムニーの基になったホープスターを造っていたホープ自動車の小野定良社長と飲み友達になったりと人脈が広がったね」と、転んでもただでは起きなかった。
ちなみに、ホープ自動車からホープスターの権利を買って「ジムニー」として売り出したのが、当時の鈴木修常務だ。「ジムニーはもうかったね。アメリカで出した赤字を帳消しにしてお釣りがきたよ」。いまもジムニーは人気で、スズキにとってドル箱車種になっている。
また、代表権もない東京駐在の常務時代の忘れられない出来事として挙げるのが、排出ガス規制が強化される中、自社の2サイクル車で規制をクリアできずスズキが存亡の危機にあった時に、トヨタに助け船を出してもらったことだ。豊田英二トヨタ自動車工業社長(当時)にかけ合って、ライバルであるトヨタグループのダイハツ工業から4サイクルエンジンの供給を受けてしのいだのだ。すでに社長就任前から、「スズキを何とかしないといけない」という「経営力」を培っていたのである。
このエピソードは、後に「豊田英二さんと豊田章一郎さんへの恩義は、忘れない」ということを筆者にも強く語ってくれたことにつながっていく。さらに、トヨタ現会長の豊田章男氏との関係から、現在のトヨタとの資本提携関係の下、生き残り策を図っている状況にも結び付いていくのだ。
鈴木修氏の「人間を見抜く」ということに関してはこんな秘められたエピソードもある。