役者絵のバックが黒というのは新たな効果をもたらした。それは、あたかも舞台の照明が消え、役者にスポットライトというべき龕灯(がんどう)の光を当てたような劇的なシーンを演出する。写楽の役者絵を手にした江戸の民は息を呑んだ。
東洲斎写楽の斬新さに
江戸の人々が驚愕した
豪奢な摺りや常識外れの一挙開板以上に衆目を集めたのは写楽の画そのものだった。
画期的、革新的、斬新、鮮烈、型破り、大胆、デフォルメ、カリカチュア……。これらは写楽の役者絵に対する今日(こんにち)の評価に他ならない。菱川師宣を嚆矢とする浮世絵の歴史を俯瞰することのできる、私たちが思わず漏らす感慨だ。
江戸時代の評価については以下のものがある。
「これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止ム」
これが、当時の写楽を語るとき必ず引き合いに出される『浮世絵類考』の文言の全文。
短文ながら、これほど蔦重と写楽の役者大首絵プロジェクトの本質を衝いた文章は他にない。しかも、この達意の文を記したのが大田南畝というのは、蔦重との関連からいっても興味深い。
文章の前半は春章、文調以来の役者似顔絵を描いたと額面通りに解して異論はなかろう。
ただ後半は深い示唆に富んでいる。南畝がいう役者の「真」とは役者その人の真実、リアリティと受け取れよう。とはいえ、役者絵というのはノーメイクの役者を描くのではなく、あくまで彼が扮した役柄を写す。当然、隈どりをはじめ化粧を施し鬘と衣装も整っている画となる。写楽もこの約束あるいは共通見解に準じて28枚の画をものした。
常識から逸脱する写楽と
蔦重との凄まじいせめぎ合い
ところが、写楽の絵筆は浮世絵界の常識を甚だしく逸脱してしまう。それが蔦重の指示だったのか、それとも写楽の意図だったかはわからない。ただ、蔦重のプロデューサー、エディターとしてのアドバイス(もしくは干渉)と、画を具現化させた写楽のクリエイティビティとのせめぎ合いの凄まじさは想像に難くない。それほど強烈なインプレッションを残す役者絵ができあがった――いや、完成してしまった。
南畝はこれを「あまりに真を画かんとて」、役柄を超越して「あらぬさま」つまり「あまりにリアルな役者の表情」を活写し、忖度なしに「役者の本性」「美醜」「品格」などなどを暴いてしまったと指摘した。