いまシリコンバレーをはじめ、世界で「ストイシズム」の教えが爆発的に広がっている。日本でも、ストイックな生き方が身につく『STOIC 人生の教科書ストイシズム』(ブリタニー・ポラット著、花塚恵訳)がついに刊行。佐藤優氏が「大きな理想を獲得するには禁欲が必要だ。この逆説の神髄をつかんだ者が勝利する」と評する一冊だ。同書の刊行に寄せて、ライターの小川晶子さんに寄稿いただいた。(ダイヤモンド社書籍編集局)

【今すぐできる】「頭のいい人、ずっと無知な人」を分ける行動・ナンバー1Photo: Adobe Stock

真実を求める

私の考えや行動が正しくないと誰かに教え諭されたなら、喜んで改めよう。
真実を追い求めて怪我をした人は一人もいないのだから。
むしろ怪我をするのは、誤ったままや無知のままでいる人たちだ。
(マルクス・アウレリウス『自省録』)
――『STOIC 人生の教科書ストイシズム』より

誤りを認めるのは難しい?

 2024年の流行語大賞「ふてほど」は、TBSドラマ「不適切にもほどがある!」の略称だが、一部ネット上では「不適切報道の略だ」というのが拡散され話題になった。2024年は「報道」に対する不信感が急激に広がった年だったように思う。

 ある事例において最初の報道が「間違っていた」とまでは言わずとも、適切ではなかった、真実はもっと別のところにあったということがわかっても、一切態度を変えようとしないいくつかのメディアを見て、多くの人は疑問を持った。

「なぜそれほどまでに誤り(適切でなかったこと)を認めようとしないのか?」

 おそらく、誤りを認めたら大怪我をすると思っているのだろう。

 また、(自称?)ジャーナリストの中にも、事件の真相を知るために必要だと思われる情報を見ようともしない人がいることに驚いた。

 見てから判断するのではなく、そもそも受け取らないのだ。

 知りたくない、知ってしまえば自分の誤りに気づかざるを得ないからということか。おそらく、誤りを認めたら終わると思っているのだろう。

「自分に都合のいい情報」を探していないか?

 あるとき、私が報道番組からネットメディア、SNSと一日中チェックしているのを見て夫が「なぜそんなにずっと調べているの?」と聞いてきた。

「真実を知りたいから」と答えると、夫は「本当にそう?」

 当たり前じゃないか、何を疑問に思うことがあるのかと怪訝に思って黙っているとこうたたみかけてきた。

自分にとって都合のいい情報を探し回っていることはない?」

「そんなことしていない! ただ真実を知りたいだけ!」

 私はその場では認めなかった。

 だが、確かに、完全にくもりのない目で情報にあたろうとしていたかと聞かれれば自信がない。自分が思っているストーリーと合致する情報を見つけ出し、安心しようとしていた、そのために必死になっていたと言えなくもない、かもしれない。

 私たちは「真実を知りたい」と言う。

 しかし、口ではそう言いながら無意識に「自分に都合のいい真実を知りたい、都合の悪い真実は知りたくない」という考えに陥っていることがある。

 自分の誤りに気づかざるを得ないような情報はシャットアウトしたくなる。ひどくなると「ウソだ」「デマだ」といって見向きもしない。

頭のいい人は「耳の痛い情報」にも向き合う

『STOIC 人生の教科書ストイシズム』によると、ストア派の哲学者であり、ローマ皇帝となったマルクス・アウレリウスは「真実を追い求めて怪我をした人は一人もいない」と言っている。

 現代を生きる私たちが、この言葉になかなかリアリティを持てないとしたら残念なことである。

 実際、「真実を追い求めると怪我をするんじゃないか」というほうにリアリティを感じてしまう自分がいる。

 どうも多少の怪我は避けて通れないような気がする。

 しかし、誤ったままや無知のままでいるほうが大怪我になることはよくわかる。ちょっとした怪我は覚悟しながら、真実を追い求める勇気が必要なのだろうと思う。

(本原稿は、ブリタニー・ポラット著『STOIC 人生の教科書ストイシズム』〈花塚恵訳〉に関連した書き下ろし記事です)