![萩本欽一と泉ピン子](https://dol.ismcdn.jp/mwimgs/3/3/650/img_33a3bfb8a07ae8a7ba9b0d0a14391b04344506.jpg)
素人に絡んでテレビの主役にするなど、バラエティの常識を打ち破ってきたといわれる萩本欽一。今では当たり前に使われている「ハガキ職人」や「ウケる」という言葉、番組での素人投稿など数々の新しい笑いを広めた『欽ちゃんのドンといってみよう!』(通称『欽ドン!』)の成り立ちにスポットを当てる。※本稿は、太田省一『萩本欽一 昭和をつくった男』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。
ラジオで素人のネタだけを採用し
「ハガキ職人」という言葉を広めた
1972年4月、ニッポン放送で萩本欽一の番組『どちらさんも欽ちゃんです』が始まった。土曜深夜の1時間番組。パジャマ党(編集部注/萩本が見込んだ放送作家の卵たち)のデビュー作である。
そのなかに、リスナーからネタを募集し、面白かったものを紹介するコーナーがあった。これが好評で、1972年10月から同じニッポン放送の帯番組として独立した。
それが、『欽ちゃんのドンといってみよう!』、通称『欽ドン!』である。番組の長さは10分。欽ちゃんがリスナーからの投稿を読み上げ、その場でウケ具合を見て賞を決める。スタジオ内にはアシスタントやパジャマ党の作家たちがいて、その笑いの大きさが判断基準になった。
投稿のテーマは、帯番組なので曜日ごとに決まっていた。
たとえば、「母と子の会話」というテーマではこんなハガキが来る。「母ちゃん、ウチが燃えてるよ!」「いいから、早くもう寝なさい」。スタジオ内は爆笑となり、欽ちゃんが「ノンノ賞」(集英社の提供だったので、賞の名は「プレイボーイ賞」「明星賞」「ロード賞(ロードショー)」など集英社が発行している雑誌からつけられていた)などと賞を決める。そして番組の最後に最優秀賞が決まり、5000円の賞金がもらえる。
いまの感覚だとよくあるスタンダードなラジオ番組だが、当時は画期的だった。一般リスナー、つまり素人のつくったネタだけで構成する番組などそれまでなかったからである。後に面白いネタを送ってくる常連投稿者のことを「ハガキ職人」と呼びならわすようになるが、これもまた萩本欽一が放送業界にもたらしたもののひとつだった。
そしてある時から、今度はこのラジオをテレビでやろうと萩本は思うようになった。忘れないようにと、破いた台本の表紙をいつもポケットに入れていたほどだ(萩本欽一『なんでそーなるの!萩本欽一自伝』集英社文庫、2010年、169頁)。『欽ちゃんのドンといってみよう!』の主役も素人。素人とテレビの相性の良さを身に染みて知っていた萩本は、手ごたえを感じていたのだろう。