これは一つには、中国人側に常日頃から「もっと理解してほしい」という渇望があることの表れだろう。実際に小紅書上でのやりとりでも、「偏見を持った米国メディアの報道で中国理解が妨げられている」という指摘が、中国人側からも米国人側からも出ていた。それを見ていて、この米国人難民たちの姿が1970年代の米中国交樹立以前に、社会主義に傾倒していた若者たちと重なった。少なくとも現体制に不満を持つ、という意味では、そう違わないのかもしれなかった。
ただもう一つ、中国人側に「小紅書は中国の領土」的な意識があり、米国人ユーザーたちはそこに「助けを求めて流れ込んだ難民」という「主従関係」を見出しているようにも感じられた。確かに小紅書デビュー当初にはTikTok難民たちは、「米国でTikTokが迫害されている」とか、自分がどんなに残念な思いを抱いているかといった思いをそこで訴えていた。「助けを求めてきた」と中国人側が解釈するのも無理はなかった。
しかしそこに「これで米国人が中国人を理解してくれるはず」という受け身の期待が蔓延したのは、奇妙な光景だった。中国人はこれほどまでに「自分たちは理解されていない」という被害者意識に苛まれていたのだろうか。
この点について、元著名紙記者で、コロナ後にカナダに「潤」(run、国外脱出の意)した彭遠文さんが、「中国人ユーザーが見せた『善良さ』は虚栄心だ」と述べている。
「一部の人たちは交わされたやり取りから、まるで中国人が米国人よりも豊かな暮らしをしているかのようにプライドを高めている。しかし、ぼくが以前も指摘したように、(中国では)60歳以上の農民1億人以上が、月平均100元(約2200円)あまりの基礎年金しか受け取れないのも事実だ。ぼくは不幸自慢をしろと言いたいわけじゃない。正月の訪問客に最高のもてなしをしようとするのは理解できる。それを虚栄心とは呼ばないし、そうだとしても許容範囲だろう。だが、有頂天になるのは、みっともなさすぎるじゃないか」