作り手はどこまで計算した?

 この原稿を書いている途中に、やはり「赤いきつね性的だから炎上したわけではないのでは」という趣旨の投稿を複数目にした。

 ここ10年ほどのジェンダー意識の高まりや、性差や性的役割分担が強調される表現物への議論などを経て、「広告が炎上するときは、それが性的に見えるから」という意識がネット上では一人歩きしてしまった。

 しかし実際は炎上の理由はその都度異なっており、もう少し細かい解像度でそれぞれを見ていくべき話だ。少なくとも広告を打つ企業側が「広告が性的に見えるという理由でいちいち反感を持つ女性たちがいるらしいよ」という粗い解像度のままでいるのはあまり良くないだろう。

  どの企業も自社の商品開発に工夫を凝らし、お客様のために最大限の努力をして、「わが子」のように商品を生み出している。自社のブランディングについては言わずもがなである。

 広告もそのような思いを根底にした上で、一流の広告クリエイターたちが知恵を絞ったものなのだが、そうであるにもかかわらず、物議を醸す広告は生まれてきてしまう。

 お茶の間でテレビの文句を言っていた時代とは違い、今では違和感を覚えた際に誰でもそれをインターネットを通じて全世界に発信できてしまう。

 誰もが違和感を覚えることがない広告表現というのは難しいだろうし、一部からひんしゅくを買っても、だからこそ一部には刺さりまくる広告となることもある。

 その上で思うのは、作り手側がどれだけ反応を予想できるかという点だ。

 今回のような広告への物議が「織り込み済み」でなされていたのであれば、それは作り手側が消費者よりも上手だったと言うべきだ。たとえ一部から多少の疑問の声が出ても、この表現を出すべきという確固たる信念があったならば。

 男性バージョンと女性バージョンを作り、男性には仕事の場、女性には家でくつろぐ様子を当てはめている時点で「性的役割分担と言われる可能性がゼロではない」という検討があったかどうか。女性バージョンで「女性らしさ」を強調することに検討はあったかどうか。あった上で、「その批判が来ても説得力を持って跳ね返せる」という計算があったのであれば良いのだが。

 少なくともネット世論の中で議論が行われているのだから、その議論を踏まえた上での表現が見たい。そしてそう心配せずともアンテナ力の高いクリエイターたちはそうしていくのだとも思う。