容疑者の脳のデータを調べれば犯人がわかるとしたら、その使用を拒否することができるだろうか

 サンフランシスコのニューロテック企業エモーティブは、注意力管理のためのツール「ソリューションMN8」を開発した。見た目はイヤホンと変わらないが、両耳に挿入した2個の電極によって従業員の感情や認知機能をリアルタイムで監視できる。それをクリスティーナという(架空の)データサイエンティストが装着したときの様子は、こう描写される。

(クリスティーナは)チームとの数時間のビデオ会議を終えてコードをチェックしている。MN8は注意力の指標にアルファ波を使う。強いアルファ波はマインドワンダリング(注意力が低い状態)と相関があり、弱いアルファ波は高い注意力と相関がある。
 エモーティブが所有するアルゴリズムがデータサイエンティストの注意力が鈍っていると判断し、彼女のラップトップコンピュータにメッセージを送る。
「クリスティーナ、休憩の時間です。少し散歩したいですか。それとも集中度を回復するためにガイド付きの瞑想を5分間しますか」
 雇用主は、収集されたデータを使って個々のユーザーの認知負荷を評価し、他の従業員と比較し、一日を通して社全体としての生産性を上げるために従業員を管理する。もちろん、それは昇格、つなぎ留め、降格などにかんする決定をするためである。

 このようなニューロデバイスを開発しているのは、エモーティブだけではない。MITメディアラボの「アテティブU(AttetivU)」はEEGを内蔵したスカーフで、これをつけたユーザーのエンゲージメント(仕事への集中力)が低下すると、スカーフがかすかな触覚フィードバックを振動で与えるという。

 こうした近未来を「人間の家畜化」と感じるひとは多そうだが、ニューロデバイスが普及し、それを装着することで個人の生産性が上がり、収入が増えたとしたら、その使用を禁じることができるだろうか。

 最新のニューロテクノロジーは、もちろん会社だけでなく国家によっても利用されている。ブレインウェーブ・サイエンスというテクノロジー企業は「アイコグニティブ」という機器を販売している。これを使うと「人の脳から情報を抽出できる」のだという。

 アラブ首長国連邦(UAE)がアイコグニティブを購入し、ドバイの警察学校で数回の実験に成功したことで、現実に起きた殺人事件の捜査にこのテクノロジーが使用された。

 倉庫で起きた殺人に従業員が関与しているとの疑惑を抱いた警察は、倉庫の労働者全員にEEGヘッドセットを装着させ、犯罪現場の写真を見せた。すると殺人に使われた凶器の写真に対し、1人だけが脳の特徴的な「認識」パターン(P300波)を示した(他の従業員は誰も同じような反応をしなかった)。「その証拠を見せられた被疑者は自供し、犯人しか知りえない詳細を話した」という。

 ニューロテクノロジーはこれからますます高度化し、わたしたちはプライバシーと公益のトレードオフを突きつけられることになる。テロや凄惨な大量殺人が起きたとき、容疑者の脳のデータを調べれば犯人がわかるとしたら、その使用を拒否することができるだろうか。

「脳が徐々に向上することは、ヒトの繁栄にとって不可欠であり、それは私たちが追求できるし、追求すべきでもある社会的善だ」

 脳の研究が進むにつれて、その機能を強化する方法があることがわかってきた。これは「ブレイン・エンハンサー」と総称される。

 国際チェス連盟がチェスをオリンピック競技にしようとしたとき、IOC(国際オリンピック連盟)のドーピング規制に対応するため、集中力、注意力、記憶力を高めるとされる精神刺激薬の効果を調べた(チェスのトーナメントでは、こうした薬物の接種は禁止されていなかった)。

 モダフィニルは脳のはたらきを活発にして覚醒を促す薬物で、ナルコレプシーや突発性過眠症、閉塞性睡眠時無呼吸症候群など日中の過眠症を改善するために使われる(劇薬に分類されている)。リタリンも覚醒効果のある薬物で、日本ではナルコレプシーの治療薬として認可されているが、アメリカではADHD(注意欠陥・多動症)など発達障害と診断された子どもに広く処方されている。その化学構造はアンフェタミン(覚醒剤)に酷似している。

 ある研究で40名のチェスプレイヤーによる3000局を調べたところ、モダフィルは平均で15%、リタリンは平均で13%の成績向上をもたらす効果があった。カフェインですら、平均で9%の成績向上を可能にした。覚醒系の薬物は確実に効果があるのだ。

「十分な睡眠を取る人がモダフィルのような興奮薬を飲んだ場合には、注意力、実行機能、学習能力が向上する。また、リタリンなどの処方興奮薬も記憶や情報処理の速度を向上させる」とファラハニーは書く。

 コリエンテスラーゼは幹細胞でつくられる酵素で、アセチルコリンを分解するはたらきをする。アセチルコリンは脳内では学習や記憶にかかわっており、コリエンテスラーゼを阻害してアセチルコリンの脳内濃度を上昇させると、記憶力、覚醒度、言語流暢性、創造的思考などが増進する(コリエンテスラーゼ阻害薬は認知症の治療に使われている)。今後は、こうした仕組みを利用したブレイン・エンハンサーが次々と市場に登場することになるだろう。

 日本でも「脳トレ」がブームだが、脳力トレーニングゲームの効果に関する製造・販売会社の主張はあまりに誇張されているとして、2014年に科学者有志が「特定のゲームを特定機能の向上効果に結びつける研究が絶対的に欠如している」と警告した。だがその後、オーストラリアの科学者たちがトレーニングゲームの科学的根拠を検証したところ、「ブレインHQ」と「コグニフィット」についてはランダム化された適切な研究が行なわれており、「1週間にわたってこれらのゲームをした人は、情報処理の速度、注意力、記憶、論理的思考、実行機能において測定可能な向上効果を示した」とされた。――「ブレインHQ」はスマホのアプリで体験できる。

 こうしたトレーニングを一般消費者向けの脳波計を使って行なうと、向上効果がさらに顕著になる。脳波計がニューロフィードバックによって学習効果を強化するのだ。

「脳が徐々に向上することは、ヒトの繁栄にとって不可欠であり、それは私たちが追求できるし、追求すべきでもある社会的善だ。また、それは私たちが絶えず追求しつづける社会的善である」と述べるファラハニーは、ブレイン・エンハンスメント(脳力向上)のブームについて次のように書いている。

 脳機能が向上すれば、職場で成功し、所得が増え、社会的・経済的な困難を経験する可能性が減り、心身がすこやかになるだろう。問題は、認知的自由の核心――自分の脳と人生にかかわる事柄に対する自己決定権――にある。

 脳機能が向上することが、健康(身体機能)の向上と同じく、無条件によいこと(社会的善)だとしたら、その手段はすべてのひとに等しく提供されなければならない。このような主張が広く認められれば、エビデンスのある脳力トレーニングを国が無償で子どもや市民に提供するような未来が訪れるかもしれない。