「異邦人」に寛容な背景には
内戦と独裁の歴史があった

「名画の旅」の仕事が終わって、どの都市がいちばん良かったかを考えた。答えはすぐに出た。バルセロナ。

 マドリードでゴヤの『裸のマハ』を取材したとき、次回に備えてダリやミロの資料を探そうと、週末の2日間、訪れただけだった。それでも強烈な印象を受けた。

 街が美しく、食べ物がおいしいだけではない。アジアから来た異国の人という奇異の目で見られなかったのは、ここだけだった。自分も街に溶け込んでいると肌で感じることができた。

 どうしてだろう。歴史をひもといて、おぼろげながら理由がわかった。バルセロナを州都とするカタルーニャでは、13世紀には早くも身分制議会がつくられた。強い自治意識は中世からの伝統である。18世紀には王位継承で異を唱え、フランスに占領された。

 そして1936年には市民戦争(スペイン内戦)が起きる。バルセロナは共和派の拠点となり、王政の復活をもくろむフランコ将軍の反乱軍と熾烈な戦いを繰り広げた。この内戦は世界から注目され、国際旅団(編集部注:スペイン共和国政府により編成された、外国人義勇兵旅団)がバルセロナに駆けつけた。参加したヘミングウェイはのちに『誰がために鐘は鳴る』を書き、オーウェルは『カタロニア讃歌』を書く。

 2年後、バルセロナは陥落した。死者は7万人を超えた。フランコの苛烈な軍事独裁によって多くの市民が処刑されたり投獄されて拷問を受けたりした。カタルーニャ語は禁止され、地名や通りの名が変えられ、伝統の音楽や祭りも禁止された。

 この弾圧は1975年にフランコが死ぬまで続いた。市民戦争とその後の弾圧を生き抜いた人びとはまだ大勢いる。語り継がれ、若い世代も熟知している。この街では「つい昨日のこと」なのだ。

 だから市民の多くは「スペイン」を今も嫌っている。「旅行者よ、覚えておいてくれ、カタルーニャはスペインではない」と英語で書かれた大きな横断幕がサグラダファミリアに張られたのを見たことがある。