囚人と詩を詠み合い、孔子を説いた「学びの習慣」――吉田松陰が教えてくれた「どこでも学べる力」
仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつマネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

学習机で勉強するのが一番と考える人は永遠に二流。では、吉田松陰が多くを学んだ「超意外な場所」は?Photo: Adobe Stock
吉田松陰(1830~59年)は、江戸時代末の長州藩士・志士・思想家・教育者。長州藩の下級武士の「杉家」に生まれるが、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修める。幼いころから父や叔父からスパルタ教育を受け、11歳にして藩主に講義を行っている。その後、学問のために諸国を巡るが、無許可で東北に行ったことにより処分を受ける。また、ペリー(1794~1858年)が来日すると、海外を学びたい気持ちからペリー艦隊に乗り込み、密航を図る。当時の密航は大罪で、死罪は免れたものの、投獄された後、実家での謹慎処分を受ける。謹慎処分中に「松下村塾」という塾を主宰し、多くの若者を育成。倒幕活動や明治維新後の近代化に貢献した人物を多く輩出。その一方、江戸幕府が京都の朝廷の許可なく海外との条約(日米修好通商条約)を締結したことに怒り、幕府の高官の襲撃などを計画。そのことも原因となり、大老である井伊直弼が主導した苛烈な弾圧・安政の大獄にて逮捕され、江戸の伝馬町で処刑される。

貧しくても学びに満ちた家庭環境

 吉田松陰の実家は、食べるものにも困るほどの下級武士でしたが、本当に教育熱心な家庭だったようです。

 父親は畑仕事で食べものを手に入れていたのですが、畑仕事のかたわらで松陰の読書や勉強を手伝い、わからないところを教えたのです。また、夜も仕事をしながら松陰に本を読んであげたといいます。

「学び続けるクセ」はこうして育まれた

 こうした父親の熱心な指導もあり、吉田松陰は“学び続けるクセ”を身につけたのではないでしょうか。

 また松蔭は、勉強は社会に貢献するためのものという意識を強烈に植えつけられました。

勉強は社会貢献のためにある

 あるとき、教師だった叔父・玉木文之進が松陰に勉強を教えていたところ、松陰が飛んできた蚊を叩きました。

 すると文之進は、「武士として勉強をしているのは、国のためという公のことなのに、蚊を手でたたくという私利私欲のために動くとは何事だ!」と烈火の如く怒ったというのです。

 現代の感覚では理不尽な気もしますが、こうした教えが「勉強することは社会貢献のため」という意識を松陰に植えつけたといえます。

獄中でも「学びの心」は消えない

学び続けるクセ」と「勉強することは社会貢献のため」という意識をもった松陰は、生涯にわたって、どんな環境でも学び続けました。

 松陰はアメリカへ密航しようとして失敗し、江戸から長州・萩の監獄「野山獄」に入れられたのですが、そんな境遇では意気消沈しても不思議ではありません。しかし松陰は、獄中でもなお学び続けることをやめませんでした。

囚人たちとも学び合う“獄中の学校”

 野山獄には富永有隣(1821~1900年)という書道の名人のほか、俳諧の名人もいましたが、彼らを師として書道や俳諧を学んだのです。そのお返しとして松陰は、中国の思想家である孔子や孟子の教えを伝えました。

 このようにして野山獄は、その道にたけた者同士が教え、学び合う場となり、さながら学校のようでした。そのような松陰の姿勢や教えに、野山獄の役人でさえ感動し、松陰の弟子となったほどです。

松下村塾――どこでも学びは生まれる

 松陰は萩に幽閉されている間も私塾「松下村塾」を営み、高杉晋作(1839~67年)や伊藤博文(1841~1909年)など、そうそうたる人材を輩出しましたが、どんな場所でも学べることを感じさせてくれます。

学びの原点に立ち返る――松陰神社の参拝

 私は毎年、新年の仕事始めの前に、吉田松陰にゆかりがある東京・世田谷の「松陰神社」に参拝しますが、そこには松下村塾の実物大のレプリカが展示されています(山口県萩市には実物が現存します)。これを見ると、松下村塾は8畳と10畳半の2部屋しかないことがわかります。

 こんな狭いところで学んだ多くの若者たちが、倒幕活動に、そして明治維新後の近代化に貢献したのかと思うと、身が引き締まる思いがします。

「どこでも学べる」――松陰からの学びのメッセージ

 この松下村塾を年始に見るたび、「学ぶにふさわしいというところはないのだな。自分自身に学ぼうという気持ちがあれば、どのようなときも、どんなところも学ぶ場所になるのだな」と再認識して、その年をスタートしています。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。