プロレス界ではジャイアント馬場と並ぶスター選手となっていた兄貴も、やはり王貞治、長嶋茂雄といった巨人の看板選手や、芸能界の大スターと比べれば知名度は劣る。
実際、当時は「猪木が結婚」ではなく「倍賞美津子がプロレスラーのアントニオ猪木と結婚」と報じられたことのほうが多かった。
ちょうどそのころ、私にはひとつのプランがあった。日本に帰国して兄・寿一の母校でもある拓殖大学に通い、空手と日本語を学ぶという計画である。
9歳でブラジルに渡り、その後14年間ブラジルで暮らした私はすっかり「ブラジル人」になっていた。
大人になってから移民した母や兄たちとは異なり、現地の学校で学んだために、使う言葉もポルトガル語。逆に言えば、日本語のボキャブラリーは小学生程度の水準で止まっており、兄の寿一からこうアドバイスされたのである。
「啓介、これから何の仕事をしていくにしても、日本での人脈を作り、日本語もうまくなっておいて損はない。拓大に留学の枠があるから、このあたりで少し勉強しておけ」
いわばブラジルから日本への「逆留学」だが、私はそのすすめに従って、拓殖大学へ入学する準備を進めていた。そんなときに持ち上がったのが、兄貴と倍賞美津子さんの結婚だったのである。
1971年秋、私と母は日本帰国を果たした。母はその前にも一度日本に戻っていた時期があったが、私が日本の土を踏むのは14年ぶりである。
空路の移動とはいえ、いまのように直行便はない。サンパウロからリオデジャネイロ、そしてリマ、ロサンゼルス、アンカレッジと経由して日本に着く。48時間の長旅だ。
全国を巡業中の兄貴は東京にいなかったため、羽田空港には兄貴の運転手が迎えに来てくれた。
そこで美津子さんの父、倍賞美悦さんにも初めて挨拶をした。都電の運転手をつとめていた美悦さんは当時、芸能界で活躍する千恵子さん、美津子さんの仕事を裏方として支えていたようだった。