古河電工の中では、取締役くらいにはなれるものだと思い込んでいた。45歳で名古屋支店の営業部長まで昇進して、当時100人いた学卒の入社組でもなかなかいい線をいってたんだよ。ところが、ある日、関連会社に出向しろと命じられて、自分のサラリーマン人生の先が見えたと思った。ちょうどその頃、JSL(日本サッカーリーグ、1965年に創設されたアマチュアの全国リーグ)から総務主事になってほしいって話が来た。
そのときに、もう会社を辞めてやろうぐらいの感じでいたから、残された自分の人生を何のために生きるかと考えた。やっぱり「サッカーしかないな」って。自分の力でサッカーを人気スポーツにしたい、最後の仕事は「サッカーのプロ化」だと決心がついたんだよね。だから、総務主事を引き受けた。
プロ化を言い始めたのは僕じゃなくて、当時JSLの運営委員を務めていた各チームのマネージャーたちが内々にプロ化の議論を始めていた。たけど、そんなレベルの推進力では、プロ化は絶対に実現できない……。JSLの最高議決機関だった評議会、ここのメンバーはチームの親会社の取締役クラスの人たちで、そういう人たちは「サッカーのプロ化なんて時期尚早」という意見が多かったからね。サッカー協会の役員の多くも成功するわけがないと反対していた。頭にくるようなことを言われたこともあったよ。
だから、あのとき関連会社への出向がなかったら、会社員として順調に昇進していたら、絶対にサッカーには戻ってないね。断言できる。
よく講演でも言うんだけど、会社員のころは、いい家に住めて、いい給料をもらって、自動車が買えて……自分中心のビジョンで動いていた。
関連会社への出向によって、その想定から大きく道がそれたときに初めて世のため人のため、サッカー界のために生きようと思ったね。自分の力で日本のサッカーをもっと人気あるスポーツすることこそが、自分の使命だと感じた。