多くの人の中に、犯罪を行う人と自分は絶対的に異なる存在である、という線引きがあることが窺える。その気持ちはよくわかる。被害を申告しても、警察が受理するには大きなハードルがあるし、起訴まで至ったとしても、被害に見合った判決がおりないことも多く、司法への絶望は深まるばかりだ。

 犯罪は被害者に生涯にわたりさまざまな傷を植えつける絶対に許されない行為であるし、私自身、強盗や詐欺に手を染める人の気持ちは正直全くわからない。多くの人にとって、犯罪者は理解できない、理解したくもない遠い世界の存在なのだと思う。

「まとも」「真面目」とは
一体何をもってそう言うのか

 ただ、自分が想像すらできないような境遇は存在するし、自分が犯罪に関わらなかったことが、自らの努力や真面目さゆえだと断じるのは少々傲慢な気がする。

 同じ境遇でも犯罪に関わらなかった人だけが偉いというが、誰一人として「同じ境遇」ではないはずだ。他人の育った環境、親子関係、人間関係、背負ったもの、それらを簡単に推し量れるはずなどない。

「まとも」とは、「真面目」とは、いったい何をもってそう言うのだろう。

 失業者や低所得者にも、「真面目に働いていればそうはならない」といった主旨の言葉がよく投げつけられる。そうならざるを得ない事情を、「普通」に生きてこられた人が推し量ることはとても難しい。

 私自身、貧困家庭で育った体験をまとめた著書(編集部注:『死にそうだけど生きてます』)への感想で、「こういう状況だと犯罪に走るケースも多い。筆者はそうならなかったのだろうか」というものが寄せられた。その感想の主は都市部で貧困に陥る若者を何人も見てきた人物だった。

 その感想を聞いたとき、ハッとした。私は地方の、しかも過疎地で育ったため、犯罪組織とは無縁だった。

 しかし、都市部の場合、犯罪グループは至るところに根を張っているし、少女であれば援助交際などでお金を稼ごうとすることだってある。法律上アルバイトができないが、家族からネグレクトされていて食事が摂れない、または親が無職で困窮しており仕事が必要、といった事情から、繁華街で違法に就労したり、身体を売るケースがある。