1972年。
彼は既製服の会社である「ワイズ」を設立。
青山にあるマンションの一室を借りて始まった、小さな会社でした。
初めての展示会で発表したのはウール生地のテーラードスーツなど、男性的なニュアンスのある婦人服で、当時は全然売れなかったそうです。
初のパリコレは大盛況
バイヤーが押しかける騒ぎに
その後、初めてのファッションショーは1977年の東京コレクションで行い、これは成功。軌道にのったブランドは、1981年にパリコレクションでのデビューを経験します。
初のパリコレについて、耀司氏本人は「お客は集まらないだろう」と踏んでいたそうです。ショーも小規模なもので、変わったバイヤーの目に止まれば…くらいの感覚だったといいます。

しかし予想に反し、彼のコレクションは大きな盛況を呼びました。会場に入りきらない程のバイヤーが押しかけ、事務所のエレベーターが壊れてしまったというのは、有名な逸話です(※4)。
ヨウジのコレクションで有名なものいくつもありますが、1996年春夏に発表した「花と少年」と呼ばれるショーは、中でも有名かつ人気も高いです。
テーマに「少年」とある通り、まだ10代前半の少年もモデルとして起用し話題となったこのコレクション。会場には赤や黄の花が添えられ、同様に牡丹の花が大きくプリントされたアイテムも印象的でした。独特の色気だったり毒々しさみたいなものを感じて、めちゃくちゃカッコいいんですよね。この牡丹の花は京都の服飾図案家・林史己によるもので、彼の作品は他のコレクションでも登場しています。
そして1982年、ヨウジヤマモトはコム・デ・ギャルソンと共に、欧米で大きなセンセーションを巻き起こしました。「黒の衝撃」として語り継がれる、伝説のコレクションを発表したのです。
※4…順風満帆に見えるヨウジですが、実は一度破産を経験しています。2009年10月9日、株式会社ヨウジヤマモトは東京地方裁判所に民事再生法の適用を申請しました。この時の負債総額は60億円で、年間の売上はピーク時の120億円から75億円に落ちこんでいたといいます。原因は前年に起きていたリーマンショックや、ファストファッションの急拡大でした。その後ヨウジヤマモトは投資会社インテグラルが株式会社ヨウジヤマモトとして事業譲渡を受け、再起を果たします。これにより、ブランドは現在も継続しているわけです。