まずは「深呼吸」
シートベルトは外れたが…
絶望に陥った男性がまず取った行動は「深呼吸」だった。冷静に呼吸を整え、一度大きく息を吐く。そしてバックルを、深く、確実に押し込んだ――「カチリ」と音がして、シートベルトが外れた。
黒い水は、胸元を過ぎ、首元にまで達しようとしていた。男性は、車のドアを開けようと押した。しかし、びくともしない。外からの水圧のせいなのか、まるで鉄の壁に閉じ込められているかのようだった。
「このままじゃ、あと1分ももたない――」
ハンマーでもあれば、窓ガラスを割れるのに!
……何か代わりになるものはないか?男性は、助手席に手を伸ばし、ヘッドレストを外してみた。すると、とがった金属が現れた。シートに固定するための接続部である。
窓ガラスは「四隅を叩け」
防災講座での教え
ヘッドレストを手にしながら、以前、防災講座で聞いた「窓の四隅を叩け」という教えを思い出していた。中央はたわむが、隅は衝撃に弱く、割れやすい――。
金属の先端を、運転席のサイドにある窓ガラスの隅に向け、一気にたたきつけた。窓ガラスが蜘蛛(くも)の巣のようにひび割れ、砕けた。冷たい海水が一気に押し寄せる。

男性は、窓枠を通って、勢いよく車外へ飛び出した。
そこは想像を絶する世界だった。濁流の中には、壊れた住宅の木材、ドラム缶、ガラス片、金属片がグチャグチャに混じっている。視界は完全に奪われ、オイルの混じった海水が鼻と口を焼いた。呼吸ができない。上下もわからない。
それでも、沈着冷静でありつづけた。
「通常の水よりも浮力は大きいはずだから、浮上できる」
「おぼろげに見える光の方向が、水面のはずだ。」
そんなことを理屈っぽく考えながら、暗闇の中で手をかき、足を動かし続けた。