「個人や団体の利益は、健康や安全、環境や文化等、将来の世代にわたって必要な公益のもとに得られることに留意し、その追求は、公益に配慮して行うことを要する」(第六条 公共の利益)
この「日本の利益のためには国民の利益は制限されなくてはいけない」というのは、国家総動員法と根っこの部分は同じである。我々国民は「日本」あっての存在なので、「日本」を守るという公益のためには個人の生活や経済活動はすべて国の管理下に置かれなくてはいけないという考え方なのだ。
さて、こういう話をすると、参政党の支持者の皆さんは批判されているように感じるかもしれないが、筆者にそういう意図はない。
「国家主義」という問題の原因は参政党ではなく、「世論の暴走」にあるからだ。
よく日本が国家主義に傾倒した時代の話になると、「軍部が暴走した」とか「近衛文麿や松岡洋佑のようなポピュリズム政治家が悪い」ということになる。だが、先ほど松岡が国民的英雄になったことからもわかるように、全ては国民が望んだ結果である。
拍手喝采したのは国際連盟脱退だけではない。1941年12月の真珠湾攻撃は日本中がサッカーW杯で優勝したかのようなお祭り騒ぎで、大多数の国民が「戦争賛成」だった。
あのとき、もし軍部や政治家が「日米戦争は絶対回避」を貫いていたら、怒りにかられた民衆が暴動を起こして、政治家や軍人の家族に危害が加えられていた。クーデターも起こりえただろう。
ドイツのように独裁者があらわれて国民を戦争に煽動したわけではない。日本の場合、世論が「横暴な白人列強に思い知らせろ」と熱狂し、政治家や軍がポピュリズムに流れて暴走をしただけだ。
それと同じで、もし日本がこれから「国家主義」が台頭することがあったとしても、それは参政党がどうこうではなく、我々国民が自ら選んだ道だということが言いたいのである。
人間はたかだか100年、200年ぽっちでは成長しない。だから同じ行動・同じ過ちを繰り返す。それをどうにか回避できないかということで「歴史学」が生まれた。