つまり、「現実との関係」を尺度にして人を判定することは、「適応」イコール「正常」という考え方にもとづくことになり、本連載第5回でも述べたように、最も麻痺した人が最も健康と判定されることにもなりかねないのです。アルノ・グリューン氏は、そのような誤った判断に陥らないためには、その人の人間的な感情や知覚が自然に動き反応しているか、その人が人間的に生きているかどうかということを尺度にすべきだと言っているのです。

 たとえば、独裁体制の下で情報統制が敷かれたような国において、反体制的思想を持っていることを「精神の病」として不当に扱われたケースは、実際過去に数多く存在します。これを、私たちとは無縁なことと思ってはならないでしょう。そのような悲劇は、「適応」イコール「正常」という尺度から容易に生じるものであり、見えにくくはあっても、実は私たちの身近にいくらでも見つかるものだからです。

マイノリティは真っ先に反応する

 現代社会の持つさまざまな不自然さや歪みについて、鋭敏さを失っていない一部の人たちが、真っ先に何らかの反応を示しはじめます。

 しかしそのような人たちは、しばらくの間はマイノリティ(少数派)でしかないため、マジョリティ(多数派)はそれを奇異な目で眺め、ともすると彼らに「弱い者」「異常な者」「不適応者」といった評価を下してしまいがちです。

 苦悩や苦痛を抱え医療機関に相談にくる人を「患者」と見なし、そうでない人々を「健常者」と見なすのが一般的な視点になっていますが、私は、これが案外逆の場合も多いのではないかという感想を持っています。たとえば、受診してきた人が、所属する家族や会社などの組織の問題点を最も鋭敏にどこかで感じ取っていて、いわば代表者としてその歪みについて取り組む役どころになっていると思われることが多々あるからです。

 現代の「うつ」についても、やはりそういった意味で現代の社会のさまざまな問題点を先端的に反映した警告のメッセージであるように思われてなりません。

 人間的な感覚をより多く保っている人が、「うつ」というシグナルによって、先頭に立って私たちに警告を伝えてくれていると捉えるべきなのではないでしょうか。これを、クライアント個人の「病気」を「治療」するのだと考えるような視点だけでは、大切な深層部のメッセージを汲み取ることはできないでしょう。

 このように、マジョリティの「適応的」価値観から自由でなければ、私たちは物事の真の姿を捉えることはできません。

一般的な社会常識、会社の常識、世間的常識、医学的常識、栄養学的常識等々、マジョリティの権威をまとったさまざまな価値観が、私たちの周りに満ち満ちています。それらを鵜呑みにして物事を判断してしまうと、いつの間にか不自然なものを不自然と感じられないような「適応という名の麻痺」に陥ってしまいます。

 いつもどこかに「本当にそうなのだろうか?」という積極的な懐疑心を持って、不器用でも自分なりに検証してみる姿勢が、私たちの人間的な感受性と思考を守り、安易にマジョリティに流されない生き方を作り出してくれることでしょう。本当に大切なことは、外から仕入れる情報の中にあるのではなく、自分の内なる自然(「心」=「身体」)が教えてくれるものなのです。

本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。