藤山一郎はコロムビアではなくビクターに入社

「国民的歌手 藤山一郎全集(上)~栄光の軌跡」(日本コロムビア、2011)のジャケット。日本コロムビア創業100周年を記念して発売されたもの。テイチクやビクターの音源も収録されている

 明治大学マンドリン倶楽部の指揮者・古賀政男は1931年2月にコロムビア(日本蓄音器商会)へ入社すると、「キャンプ小唄」(4月)、「乙女心」(5月)、「酒は涙か溜息か」(10月)、「丘を越えて」(12月)と矢継ぎ早にヒット曲を連発した。歌手は「乙女心」以外、すべて藤山一郎である。4曲は合計200万枚を超える売上だったという。コロムビアは古賀へ、月給以外に1枚1銭の印税を支払うことにした。

 とくに「酒は涙か溜息か」は100万枚を超えるミリオン・セラーだった。今に至るまで日本人ならばだれでも知っている歌として残っている。発売された1931年当時、「藤山一郎」という歌手はナゾの存在だった。顔をまったく出さず、覆面でデビューしている。在学していた東京音楽学校は、学生が流行歌手としてレコードを発売することを禁止していたためである。

 藤山一郎の本名は増永丈夫、慶応義塾幼稚舎・普通部から東京音楽学校(芸大)声楽科へ進んでいる。藤山の履歴を小沢昭一がまとめているので「小沢節」で引用すると、

「明治四十四年四月八日、東京は日本橋蠣殻町の生まれ。生家はモスリンの問屋さんです。小さいころから歌がお上手で、慶応の幼稚舎普通部を経て昭和四年上野の東京音楽学校、現在の東京芸術大学声楽科に入学。うたっちゃいけない流行歌を、傾いた家業を助けるためにアルバイトでうたっていたのが学校にばれまして一ヵ月の停学処分。それでも音楽学校は首席で卒業。しかし家業のかかえた借金莫大。その返済のためもあって流行歌が本業になり、数々のヒット曲をとばして平成五年八月二十一日、御とし八十二歳で永眠。生前に受けた数々の賞のなかで、ひときわ輝く国民栄誉賞。その贈賞理由にいわく『正統な音楽技術と知的解釈をもって、歌謡曲の詠唱に独特の境地を開拓した』云々……」(小沢昭一、大倉徹也『小沢昭一的流行歌・昭和のこころ』新潮文庫、2003)。

 裕福な繊維問屋「近江屋」の二女三男の末っ子として音楽に明け暮れていたのだが、昭和恐慌のさなか、家業は莫大な負債を抱えて破綻する。1930年のことだった。藤山は東京音楽学校2年目、本科1年生である。この年、「慶應幼稚舎の歌」「慶應普通部の歌」が決まり、慶応でも教えていた作曲家・弘田龍太郎の推薦で藤山が抜擢され、コロムビアで録音されている。

 藤山はコロムビアのディレクターを頼り、写譜のアルバイトを始めた。楽譜製作ソフトが普及するまで、おそらく2000年前後まで写譜は手作業だったので、きれいに楽譜を描ける人材の需要は100年前から最近まであったのである。

 蓄音器が普及し、日本ビクター、コロムビア、日本ポリドールが流行歌の制作でしのぎを削り始めた時期である。歌手、作詞家、作曲家も人手不足だ。東京音楽学校は歌手の供給源で、中退してレコード歌手になる学生が続いていた。

 藤山は卒業することにしていたので、覆面レコーディングで稼ぐことにする。1曲15円のギャラで、1930年から31年にかけて40曲以上吹き込んだそうだ。計600円である。1930年の日本人の平均月例賃金は54円だった(『近現代日本経済史要覧』補訂版、東京大学出版会、2010)。学生のアルバイトとしては相当高額な収入である。